小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

心のなかの暴力、刃③

2022年08月11日 | エッセイ・コラム

アメリカ・イリノイ州生まれの哲学者、アルフォンソ・リンギスの著作『暴力と輝き』(水声社2019)は、日本語訳で読める最新刊。ルーツはリトアニアで、E・レヴィナスの翻訳者としても名高い。この一冊しか読んでいないので、知ったようなことを書く資格はないのは承知している。だが、どうしても書き残しておきたいことがある

屍体は恐怖を抱かせると同時に私たちを惹きつけもする。こうした死の装いが、私たちを魅了するのだ。暴力の衝動は、屍体の姿によって搔き立てられ、屍体からさらなる力を得て、屍体に狂喜する。恐怖によってまずもたらされるものは、さらなる流血という強い欲望である。(同書220P)

この文節を読んだときに、既視感をともなう異和感が襲ってきて、何度も読み返してしまった。リンギスは具体的な状況を何も呈示していない。虐殺、ジェノサイドを彷彿とさせるこのエクリチュールは、読んでしばらくして、あのウクライナの「ブチャの虐殺」の悲惨な映像がよみがえった。路上に点々と横たわる屍体の無残さは、目に焼き付いて離れない。

 

当初、ブチャの映像はディープフェイク(偽造処理した映像ニュース)で、ウクライナ政府のプロパガンダであるとロシア側の報道があった。しかし、すぐさま真正な映像であることが、人工衛星からの画像分析により判明。数々の屍体は2週間以上も現場に存在し、ロシア側のいう「遺体は突然、路上に現れた」「一部は動いていたり息をしたりしていた」という情報は、まったくの虚偽(偽造動画)であることが証明された。

ともかく、リンギスの引用を続けよう。

今日では、妖術を信じなくとも、屍体の姿はあらたな屍体を生む暴力の引き金となる。たとえば痴情のもつれによる殺人、復讐のための殺人、暴力団の抗争、暴動、飽くことなく繰り返される戦争、捕虜への拷問、死刑などを考えてみればよい。この種の暴力の目的は、誰かを抹消することではなく、冒涜し、汚し、貶めることだ。おびただしい数の暴力行為は、被害者の身体が引き裂かれずたずたになったところを目にするのが目的なのだ。(同書221P)

このリンギスの筆致は、人を殺めることへの容赦ない断罪なのだが、凄惨な暴力の限りを尽くす人間の業をどことなく肯定するというか、引き受けるようなニュアンスがふくまれていないだろうか。そういえば、『暴力と輝き』というタイトルには「輝き(splendor)」という言葉が含まれている。

暴力〉のうちにこそ、肉体のなかに秘められた野生の力の顕現や抑圧された自由を獲得するための積極的な契機を見いだす。抑圧された負のイメージから〈暴力〉を解き放ち、その秘められた〈輝き〉によって真の自由を獲得せよ!という帯文にもなぜか引きつけられた。

リンギスは暴力を礼賛したいのではない。そこに秘められた残虐性や強圧さにひれ伏したいのではない。暴力のもつ限りないエスカレーションを示唆しているのだ。人間の内なる獣性に気づきをもたらし、その因果律と抑制の術をリンギスは訴えている。

ここで暴力へと駆り立てるものは、ひとりの人間の強靭さや力ではなく、むしろ他者の弱さなのだ。そして、暴力は、屍体の姿や、生きた身体のなかに屍体を予見することによって、さらに激しさを増していく。(同書221P)

「ブチャの虐殺」を実行したものは、ロシア軍のなかでも極東地域のハバロフスク地方の露中・露朝国境付近に駐屯する第64独立自動車化狙撃旅団、あるいはロシア軍ではなくロシア連邦保安庁の特殊部隊の、ラムザン・カディロフ率いるチェチェン部隊やブリヤート人が関与したとされている。

これらは、災害監視衛星(その他)のデータ画像ストックから分析する民間団体オシント(OSINT「Open Source Intelligence」の略語※追記)をはじめ、様々な人工衛星からの精密な地上画像を分析することで特定された。(「デジタル・ウクライナ」というBS番組では、これらの事の次第が詳細に報道され、一般の人々にも驚きをもって認知されたという)。((※追記:シントとは、世界中の個人が独自に、民間衛星の画像データにアクセス・解析が可能な民間団体。ニュースその他の情報と、大量の衛星画像データを照合。それぞれが真偽を確認し、相互利用している。2,3万人ほどがボランティアで参加していて、学生も多いという。2022.8/18)

ここで小生が驚いたのは、「ブチャの虐殺」を実行した特殊部隊には、かつてソ連時代から排除されてきたチェチェン人や辺境にいる少数民族によって編成されていたことだ。特に、チェチェン人はモスクワの連続テロ事件を引き起こしたと濡れ衣を着せられ、チェチェン共和国の主要都市は、壊滅的なまでの爆撃をうけて焦土と化した(現在は、未来を感じさせる高層ビルも建ち並ぶ)。

排除され、爆撃され、蹂躙され、それこそ圧倒的な暴力で惨殺された歴史をもつ非ロシア民族が、ロシア軍に加担して無抵抗のウクライナ市民を虐殺したという闇の事実。平和な日本にすむ老人には、どう身体をよじらせても、しょぼい脳髄を振り絞っても、理解も想像もできない。

 

リンギスの『暴力と輝き』の存在を教えていただき、その読解の手立てを示してくれたのは、このブログになんども紹介した「メロンぱんち」さんである。彼はリンギスの他の著作にも言及し、独自の読込みで人間の身体論、存在と意識などについて深い考察をおこなっている。小生には及ばない思考の地平に立っているが、リンギスはアールブリュットや前衛芸術にも関心が深く、こちらの方から自分なりにリンギスにアプローチしたいと考えている。

なお、表題の「心のなかの暴力、刃」は、リンギスの『暴力と輝き』をきっかけにして書き起こした記事で、なんとなくそのまま引き継いでいる。実は、自分の内的問題とも関連していて、それを掘り起こす知力・体力が最近とみに衰えてきている。

いま、『暴力批判論』のベンヤミンとリンギスとの視点の共通点を見出し、少しずつ書いているが、本質的なところまで考察がおよばない。「どげんかせんといかん」と思っているが、まあしょぼい感じのマイペースでやっていくしかないかな・・。で、読者が離れてしまう、まあ、それも宜(むべ)なるかなであろう。

 

 


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