小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

タンゴの夜と、古本市のこと

2018年04月30日 | 日記

 

土曜日の夜、日本橋にあるアルゼンチンタンゴのスタジオにお邪魔した。

手話をまなぶ仲間の女性Sさんが、都会のど真ん中でアルゼンチン・タンゴを習っていた。3年目にして彼女は、多くの観客をまえにしての公式デビューのお披露目をはたす。その晴れのステージに私たちは招かれ、濃密で妖しくもあるタンゴの宴に酔いしれることができた。

彼女のパートナーはこのスタジオの代表エンリケ。やや年月を経たビル8階の広いフロア、午後8時半。二人は周囲の視線を集め、今にも踊りだそうとしている。いや、しばらくの間、お互いの身体を密着させながら動かない。1分はなかったと思うのだが、心配してしまうほど長く感じられる間合い。そのままの姿勢を崩さず、二人は息をひそめて何かを待っている。これこそが、魅惑のタンゴのプレリュードだ。

バンドネオンとバイオリンが響きあう絶妙なとき、エンリケとSさんは背筋をすっと伸ばしたまま、ゆっくりと動き出した。

後で分かったのだが、お互いに気ごころが知れ、ダンスの技量も同等のカップルが躍る場合には、踊り出しはみな一様に身体を密着させたまま動かない。二人の呼吸がぴったりと合う、そんな瞬間が来たときにはじめて踊りだす。それからは男性がリードしながら、女性は抱かれたままで体を合せ、回転し、時に足を跳ね上げて、ダンスする歓びを表現していく。(踊りだすときの静止、長い間にはそれほど深い意味はないとのこと。ただ、踊りのうまいカップルは、皆さん一様に静かに立ち尽くし、暫くしてから踊りだす、そんな印象をいだいた。)


二人は3,4曲ほどそのまま踊り続け、ある種の陶酔の高みからやわらかな余韻をのこして、身体を離した。まったく表情を変えず、どこか宙の一点を見つめるかのような厳しいまなざしのエンリケが、ねぎらいの笑みをSさんに向ける。安堵の表情からSさんは微笑みでこたえ、エスコートされて周囲の皆に会釈する。たくさんの拍手、ブラボーの掛け声。

▲踊りはじめた、その間際。暗い中、わがタブロイド解像度は極端に落ちる。Sさんには了解いただいた。エンリケ氏のダンス・パートナー、カロリーナさんの写真掲載をすすめられたが、それは本意ではない。

この夜には、日本女性ではあるが、立ち居振る舞いがラテンの血が流れているのではないか、そんな妖艶で美しい、麗人が何人かいた。たぶん3、40代であろうが、見た目には妙齢な年回りとしか思えない若々しさ。宴の場をスペイン語では「ミロンガ」というが、そのラテンの香り高い場にふさわしい何かをかもし出す。

たとえば、美しい身体の曲線をたもち、その魅力を惹きたてるドレスを身にまとっている。ほとばしる緊張と柔らかな優しさ、その身体表現のメリハリ。ハイヒールで踊るからであろうか、足首の細さがひときわ目立つ。その美しい脚をターンさせるとき、膝を起点になめらかに高く跳ねあげる。それがなんともカッコイイ。

男性の踊り手がエンリケと同等の技量がある場合、それ相応に応えるほんの僅かな美女たちは、うっとりと瞼を閉じたまま踊り、周りのすべてが何ものも無いかのように、他の踊り手とぶつかることを怖れない。男性にすべて身をまかせ、ぴったり寄り添い、タンゴそのものに耽溺する。その表情は恍惚として、エロスの神に誘惑されるがまま、体は導かれ動かされてゆく。それが本物のタンゴだ! 

(しかし、真にリードしているのは女性、そうにも思わせる。タンゴは不思議だ。本場のフラメンコにも、そう感じるときがあった。こういうことを書ける、老いる自分がいて嬉しい)

タンゴは情熱の踊りだと称されるが、目の当たりにすると見てはいけない気がするほど、男女の交情を感じさせる。それはこちらが厭らしい感情があるからだ。

男性はあくまで寡黙で凛々しく、切れのあるダンスに徹する。女性は眼を閉じたまま男性のシャープな動きについていく。なんら不安のない足さばき、ステップ。やはり、どんな踊りにも、高みへの段階があり、何かを極めるような鍛練は必要なんだなと、改めて思い知った。タンゴの奥深さを、この齢で知ることができた。みなさんに感謝したい。

一時期、ピアソラに熱中して聴いていた。あの時の、静かな熱情を思い起こしながら、深夜の道を歩いて帰った。

Piazzolla Tango - Oblivion 

          ピアソラのタンゴを聴きたくなって探した。アルゼンチンらしさ、伝統のパターンをこの二人の踊りはまだ意識している。エクスタシーは、デザインしても、美に配慮しても、訪れない。ま、アルゼンチンの前衛だった、ピアソラの音楽に忠実に舞っていて好感度は高し。(二人が距離をおき、向き合い、そして体を合せて踊りだす。そのアヴァンギャルドに注目すると、ピアソラの音楽の凄さが感じられる。)


◆翌日は、日曜日で、毎年恒例の一箱古本市。

昔は、春と秋、ときに二日間の日程で開催されたものだが、ここ2,3年は残念ながら参加者も、規模も縮小した。本を読まない、古本には興味がない、そんな若い人が増えたのか。漫画がタダで読めるネットのサイトを、行政が情報遮断したことでニュースになった。想像力をふりしぼり、心血を注いで書かれた漫画が、なぜ無料で読めるのがあたりまえなのか。

そのことの不思議さ、痛い現実に鈍感な若者、そして大人たち。金をだしてまで本を読む、その行為はもはや対価のない、意味すらないことなのであろうか。一度でもいい、自分の表現したいことを4コマの漫画にして作ってみたまえ。その価値がすこしでも報われたら、君は漫画家として自立できるかもしれない。ほんの一定の期間かもしれないが・・。


それにしても、一箱古本市に筆者が参加したとき、隣の店で並んだ『Wるの悲劇』さんの名前を今回は見かけなかった。毎年お会いして意気軒昂でいきましょうと、お互いに励ましあっていたのだが、それもできず寂しいかぎり。ということで、一箱の店を軽く見ただけで帰路についた。

実は馴染みの古本屋、夕焼けだんだん上の『古書信天翁』(こしょ・あほうどり)さんに行き、古本を物色する愉しみは、ある程度達してしまった。こういう年もあって、よろしいかと思う。それにしても、真夏のような一日で、体がだるく歩くのもしんどい。前夜のお酒のせいもあったのだが・・。

▲相変わらずカラマーゾフを読書中。どういうわけか諸星大二郎の粘着、神秘を読みたくなった。その周辺の本も『信天翁』で入手した。




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