小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

異常事態からの投企①

2020年03月27日 | エッセイ・コラム

いつもと違う記事投稿である。

思いつくまま書くように・・。その分の大胆さ、定見からの逸脱をめざす。浅学を恥じることなく、集中力と言葉の妙を維持し、そのアンバランスをも自覚する。

 

いま、世界の平常態は崩れ、人間種の生存的エントロピーは縮減、いや、どうなっているのか判らない。飢餓も、感染病も、世界のどこかでいつものように発現し、人類は未だに克服することができない。

であるが、異常事態に臆しない私たちはいる。そういう文化的ミームは持っていることは確かだと、言っておこう。今回、標的にされてしまった高齢者のなかには、小生と同じような感慨をもち、想定外のリスクに遭遇してもなんとか乗り越える「技」を体得していたのだと信じたい。それこそが「回復」だ。

以前、「プリコラージュ」について書いたが、それと同じものと考えてもらいたい。一種の対応力、順応力によって、困難な事態を切り抜ける。精神的な心構えではなく、モノをつくる、つくり替える、或いは意表を突く行動をとることだ。

▲開国前後、西欧人が来日して感動したのは、街並みの美しさ。貧しくとも豊かさを感じる、そんな人々の結束、親切であった。そして、個人主義がなかったことだ。

 

今度の週末は、外出禁止を勧告されたが、「不要不急」の定義が緩いから、人々がどう受け止めるか分からない。実際のところ、食料品の買い占めは始まったし、「3.11」と同等の不安意識が蔓延しているような気がする。

先進諸国において日本人は、他者への信頼性をもたない最たる国民として定評がある(山岸社会学の知見より)。まさに、今日の買い占め消費行動は、他者を信じない日本人の特長を物語っている。この間違った「個人主義の定着」は、アメリカ経由の戦後民主主義とは別のものらしいから、今後も後を引くに違いない。

ともあれ、このまま世情的に、個人の心身拘禁状態が突き進むのは、期間限定で明快なり。意外と平気なかんじで生きていく自分なり、他者がいる楽観的なイメージを持っている(ジタバタしてもしょうもないし)。

不安の種を考えたら幾らでも思いつく。それよりも、逃れること、脱出するイメージの方がいい。

例えば、わけの分からない空間に閉じ込められても、なんとかそこから抜け出る。それは偶然ともいえるラッキーが、その時には持てる知見を生かした自分なりの、いわゆる全身全霊の行動力はまだ残っていると信じたい。

このことを端的にいうと、哲学的にはハイデッガーの「投企」だ。かみ砕いて辞書解説風にいえば「常に自己にふさわしい可能性に向って超え出ようとする」ことだ。イメージ的には、画家のエッシャーの絵画世界を想定してほしい。あの無限ループのだまし絵から、なんとか脱出する様を思い描けないだろうか。

 

詩の世界なら中原中也か・・。あの『サーカス』の不思議な言葉のリフレーン「ゆあーん ゆよーん、ゆやゆよん」だ。

幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

さかさに手を垂れて
汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん  (以下略)

 

いろいろな読み方ができて実に楽しい、そして奥深い詩だ。若い時と違って、小生はいまこの詩を、閉塞感のある時代感覚から脱出を夢見る青年の叫びだと読む。つまり、ハイデガーのいう「常に自己にふさわしい可能性に向って超え出ようとする」=「投企」の場所をサーカス小屋と見立て、新たな空間に飛び出るときの音、呪文が「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」なのだ。

そういえば、「紅テント」時代の唐十郎がそんなことを言っていたかな。もちろんハイデガーとは違う文脈で使っていただろうが、しょぼくれた小生には記憶にない。相変わらずに、好き勝手なことを書く寄道的ブログである。妄言多謝。

▲最近読んでいる、フィリップ・デスコラの主著。今回の「異常事態からの投企」というテーマに関連するのだが、書くことができるかどうか・・。牽強付会になってしまうか、だったら止めだ。


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