小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

今はなき伝説の古書店、鶉屋(うずらや)

2019年03月02日 | まち歩き

谷中にはその昔、「鶉屋(うずらや)書店」という有名な古本屋があった。平成元年に店主の飯田淳次氏が逝去し、惜しまれつつ店は閉じられた(ちょうど30年前になる!)。小生は学生時代に何度か入ったことがある。小さい店ながら詩・歌集専門の趣がある古書店で、ほかにも近代文学の初版本、落語・芸能の本などが並べられ、若造にはちと高価過ぎて敷居が高かった。と同時に、神保町ならいざ知らず、この辺りでこういう商いが成り立つか訝しい、と不遜にも思ったのは若気の至りであった。

古本屋事情の噂なり、ブログなぞをみていると、この鶉屋という名前にちょくちょく出くわすことがある。地元でも年嵩のいく人ならば知る名前の店で、なぜかというと、池田満寿夫が若いころにこの鶉屋書店で万引きしたことで有名になったからだ。本人が何かの自書に書いていて、その事実が人口に膾炙したまでだ。

先日、鶉屋書店があったところの喫茶店(夜は居酒屋?)にお邪魔したら、なんと池田のサインが額装されていた。ご主人に「ここに来たのですか」と尋ねると、懐かしくなって来訪されたとのことだ。(喫茶店の前は、象牙細工の店だったか。違う店も入っていたかもしれない。近頃の谷中は、新陳代謝が激しい)

鶉屋書店の店主に会ったことがあるのに、その飯田淳次という人物について何も知らない。それは迂闊というしかない。古本屋が多い谷中に住んでいて、鶉屋書店の来歴を知らないなんてモグリだと疑われてしまう。で、いろいろ調べたところ一冊の本に巡り会ったというわけ。

 ▲日本古書通信社発行(2006年)

青木正美という葛飾区堀切の古書店主(兼作家)が書いた『ある古本屋の生涯ー谷中・鶉屋書店と私』という本を探し当て、図書館に予約して借り、卒読し終えた。(青木氏には20冊ほどの著書あり)。

500頁余りの大部であるが、後半の三分の二は著者の日記(昭和42年から昭和57年まで)をもとに、その間の鶉屋書店の店主・飯田淳次との関りを抜粋し、それをそのまま書き移したような体裁の造り、編集子が手を入れた仕上がりとはいえない。

それゆえ、著者の愚痴、非難、恨み、弱音などの本音が、これでもかという具合に書かれていて、著者はかなりクセの強い人だという印象をあたえるが、どうか。

一番好きなものは女人、その次に読書、3番目が本だと公言する著者。体重50キロ前後、肋間神経痛や胃弱など、つねに体の変調や痛みを嘆いている割には、女人の性への執着が人並み以上で可笑しい。

人柄はというと、正直さとアクの強さが同居し、裏表があるのは如実だ。この著作に関しては、(当時の)業界の内実、自身の恥となること敢えて書き表すと豪語し、文筆にかける真摯さがうかがえる。それはそれで面白い。

さすがに文字にできないものは伏字にし、内容によっては、差障りのある個人名も伏字もしくはイニシャルだ(業界内部の人間だったら、文脈でたぶん分かるだろうし、著者もそれを承知で出版したようだ。(ちなみに、出版元は「日本古書通信社」で古書組合の息がかかっている法人。現在も出版、広報、イベントの開催など業界における中心的存在であろう)。

ともあれ青木正美は、どんなに忙しくても日記をまめに書いていたらしく、当時の東京古書組合のこと、組織の変遷、その人間関係、そして個人的な事柄、しがらみや軋轢までかなり開けっ広げに、そして体制・人事について、やや批判的に書いている。

東京の古本業界は、神保町の名のある古書店を頂点に、都内の数多くの古本屋が加盟して集まり、組合がつくられた。つまり、ここに古書(自筆原稿等含む)、雑誌などが集まり、古書店主たちが売り買いする。稀覯本もあれば、署名のある初版本に彼らの眼が注がれる。誰もが読まないクズ本、雑誌にさえ、将来の価値を見て値踏みされるのか・・。

戦後になって、リヤカーを引いて露天商をあきなう古本屋でさえ組合に参加したという。東京では10ほどの支部に別れ、その地区の店主が集まり交替で運営に携わった。戦後の混乱から高度成長期にかけて、この古書売買もまた例にもれず、各有名デパートで市を立てるほどの隆盛をみせた。その辺の裏事情やそこで繰り広げられる取引の実態などを、青木正美は克明に、かつ面白く書いている。

当時会長だった「弘文荘」の反町茂雄、八木書店など有名な古書店主が頻繁にでてくる。戦後の神保町や古書業界に興味のある方だったらかなり面白く読めるはずだ。

この青木正美という方は(昭和6,7年の生まれ)まだ、ご健在であるのだろうか?

下町の堀切あたりで二十歳のころから古本屋を始められ、体は丈夫とはいえなかったが、支店を出すほどのやり手に成長した。その一方で、文学青年崩れというのか、明治の文豪たちの自筆原稿や書簡に執着した、それもひとつの才能に違いない。高価で売買された古書のリストも掲載されていて興味がわく。

バブル期とはいえ何百万円の値が付くものもあり、青木が落札したときの、ハラハラするエピソードも、なにか秘密を知るようで印象に残る。本業の古本屋、それに関係する作家活動よりも、それらの売買で財をなしたことで、青木正美は、古書界では名が知られているようだ。

彼が個人的に目星をつけていたのは島崎藤村、室生犀星などの明治の文豪、近代文学では、川端、三島、安倍公房らの自筆原稿、書簡などを扱い、ものによっては1000万円以上の値がつく商いをしていた。

そもそも、青木正美は戦後まもなくのころ上野高校の夜学部にいて、いまでいう谷中の「夕焼けだんだん」という石段の脇のところで、古本の露天商をしていた飯田淳次に出会うことで、古書業界に入るきっかけをつくった。(隣の坂道、七面坂の途中で戸板に均一本を並べた、との文献もあった。次回に・・)

おっと、なんか脱線気味だ。そして、長くなってしまった。いったん筆をおいて、飯田淳次という人について集中的に書くことにする。
 
 ▲梟の暖簾がある店に、鶉屋書店が新築した(外観はそのまま)。以前は左のシャッターのある店で営業。ここは今、昔ながらの旨いラーメン屋。ただし残された奥さんが一人でつくる(昼3時間のみ)。
 
 ▲飯田淳次さんが亡くなられて6年後に、池田満寿夫は谷中を再訪したのだ。偶然だが、飯田さんの誕生日は明日3月3日であることがわかった。
 

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