小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

児童虐待と「いじめ」の相関を考える

2019年02月13日 | エッセイ・コラム

親が自分の子供を虐待した挙句に死に至らしめる。なんと陰惨な事件なのか。昨年、東京目黒で5歳の女児が父親(血縁関係はない)の度重なる虐待、その後の放置で衰弱死した。今年になってから、現在もマスメディアを賑わしている事件が起きた。千葉県野田市で、父親の虐待により小学生の女児が死亡した事件がそれだ。(現在は、傷害の容疑者として逮捕・拘留)。その後、母親も逮捕されたが、全容の解明はかなり先になるだろう。

どちらも、いたいけな女児の虐待死であり、周囲に助けてほしいとの悲痛なメッセージを彼女たちは発信していた。(ふたりのメッセージは、言葉を失うほどの必死さに溢れてい、残酷さを感じてここに載せることは遠慮したい)。

前者は香川県、後者は沖縄県に住んでいて、東京、千葉に移住してから、虐待をエスカレートさせたという共通性がある。あたかも児童相談所の見守り(監視?)から逃れ、せきを切ったかのように父親の虐待が過激になった。母親たちは、夫の暴力が自分に向かわないことに安堵し、子どもへのDVを為すがままに傍観していたらしい。

やりきれないというか、何故なのか、どうしてなのか、という憤怒と疑問がないまぜになって噴きあがる。理不尽さをとおり越した「」が、論理的思考を妨げる。絶対的な拒絶に出会ったような感覚になる。

我が子を殺すにまで至った、親たちの行動・思考を支配していたのは何なんだろう

筆者は素人ゆえに、この手の問題に軽々にふれることは忌避すべきと考えていた。専門外であることはもちろん、知見さえも持ち合わせない。自分の考えや意見さえも、ブログであるからという理由で披歴することはおこがましい。

しかし、10年ほど前になるか、以前このブログに「いじめ」について考え、書いたことがある。

(『いじめとは何か1』⇒https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/69a9b51142897dd85323495fbef07eb1 ) 

(『いじめとは何か2』⇒https://blog.goo.ne.jp/koyorin55/e/b79d76c9c26c53dad3bf5be272334514 )

その当時を思い返してみても、この手の問題はさらに深刻さを増し、数も増えているような気がする。またそれは、人目に触れさせないような得体のしれない配慮、つまり陰湿さや凄惨さに満ちているとしか思えないのである。筆者がこれまで深い関心をもたなかったごとく、教育現場における当事者の詳細な報告・分析などを、真摯に追及した記事なりデータを目に止めたり、記憶に残ったものが数少ないのは、筆者の怠慢なのであろうか・・。

 

▼以下に、ネットから信頼に足るデータを引用したので参考までに、と言いたいところだが官公庁の統計さえも信憑性が疑われる時代になった。ので、なんとも言えない。

▼心理的虐待とは、主として言葉の暴力、刃物を見せるなどの威嚇・威圧などで近年とみに増加傾向がある。定義が非常に難しく、「虐待のうち身体的虐待、性的虐待、ネグレクトに含まれないもの」というような消去法(あるいは、他の虐待の合併による合法)でしか定義できないのが実情とのこと。ネグレクトとは、「無視すること。怠ること」という意味で、養育すべき者が食事や衣服等の世話を怠り、放置すること。育児放棄のことをいう。実際の児童虐待は、これらの虐待が複合している。

 

 

▲(社会保障審議会児童部会児童虐待等要保護事例の検証に関する専門委員会 第14次報告より)⇒このデータで驚くべき実態が判明したのだが、これを裏づける言説を筆者はまだ知らない。

 

 そのほか、児童相談所が実際に対応するものは全国で3万件以上。児童福祉士ひとりが受け持つ案件は、月に平均40件ほどあるといわれる。親身かつ丁寧に対応できかねる件数の多さであろう。

これらの問題が顕在化したのはいつのことだったか・・。

「いじめ」がエスカレートして自殺に追い込まれた事件、そのいじめに教師が加わっていたり、いじめられる児童が集まってそのなかの最も弱い子が殺されたりする。これらは実際のところ、発生した実数の増減、現象そのものの分析・調査はされているのか。たぶん複数の監督官庁が省を横断しているはずで、だからこそ、実質的な問題解決が実行されないのかもしれない。(この筆者の疑問に答えていただける方がいれば幸いである)

筆者はこれまで教育や「いじめと虐待」に関する書籍をほとんど読んでこなかった。これでは、考えることの基盤がないに等しい。もちろん社会的な一般的な知見を多少もつものの、教育現場における具体的な事例をふまえた専門書などは読んでいない。で、付け焼刃ともいえるが、以下の書籍をいそいで読んでみた。

『いじめの構造を破壊せよ』向山洋一著、『いじめの構造』内藤朝雄著、『友だち地獄』土井隆義著、『学校のモンスター』諏訪哲二、この4冊の新書である。識者からみれば「甘ーい・温ーい」と言われそうだが、素人のブロガーとしてはとりあえず考えるための入口としては妥当なものか? 

「いじめ」という現象は、幼児教育つまり保育園・幼稚園から存在し、その幼児たちは「いじめ」という本質を知らぬまま、結果として「いじめ」てしまう現象であるから、的確な現場教育や家庭内の躾も求められるはずだ。

しかし、小学校・中学へと高学年になるにしたがって自覚的に「いじめ」をするものが現れる。それは、強い子と弱い子、できる子と出来の悪い子(学習能力)、あるいは裕福な子と貧しい子、男の子と女の子などの差異に基づく「差別感情」からの「いじめ」にもつながっていて、それが最終的に「死」に繋がるものなのか、様相は混沌としている。

こうした「いじめ」の現象は、教育現場では教師がまず察知し、指摘し、是正されなければならない。それが教育のプロとしての役割であるとして考えられる。が、教師の資質・個人差、あるいは職場環境など違いにより実際にはうまく機能していないのが実情らしい。

前述したように、教師が「いじめ」を見て見ぬふりをするとか、あろうことか「いじめ」に加担する事例もあり、教育現場の荒廃は相当に荒んでいるのかもしれない。

いじめの事例の深刻なケースでは、過度な暴行が発覚しても「教育の場」であるからといって、司直の介入を赦さない教育者も多い。刑事事件として扱うべき虐待(=暴行)にも関わらず、手をこまねいて黙認し、結果的に「いじめらる」子が自殺に追い込まれる事例が多い。そしてそれらは、未解決のままお蔵入りする。そうしたケースでは、学校あるいは地域ぐるみで隠蔽したり、調査・捜査の婉曲的な拒否をしている事例もある。だから、根は相当に深い。

『いじめの構造』という本を読んだかぎりでは、特に中学生の場合「イライラする、むかつく」といった感情以前の衝動から「いじめ」が発生する。それが「悪ノリ」して集団化すると、前述した苛酷な教育現場となる。「いじめる」側の彼・彼女は、流動的なサークルを形成して遊び感覚で「いじめる」ので、対象者が自死しても痛くも痒くもないという。ここまで来ると、善悪の観念、倫理観を喪失しているわけで、もはや健全な教育環境の体を全くなしていない。

ここで、筆者は以上のことをことを踏まえ、冒頭の児童虐待を行なったDVの二人の父親たちが、かつて「いじめられた」経験をもつ弱者だったという仮説をある程度支持している。いわゆる「負の連鎖」であるが、「いじめられた」ことがいわばPTSDとなって、そのストレスの解消・腹いせから暴力(言葉&身体)が子どもに向けられる。とくに、離婚・再婚後における精神的なストレスが主として相手側の連れ子に対する加虐は昔から存在するし、小説やテレビドラマなどの物語の定番ともいえるので、安易にその筋書きに「悪ノリ」しているとしたら言語道断だ。

▲「第19回児童虐待防止対策協議会」の資料より⇒ 男性・女性との比較だが、上記の死亡にいたる加害者の属性に注目すると、問題の複雑さや深遠さがうかがわれる。

人間は、不全感をもって「いじめる」側に立つとき、「全能感」を感じるのだという。身近なところで「いじめる」対象を見つけると、無意識に自分に都合のいい筋書きをつくり、暴力を加えるようになる。そこで、いじめられる側の強い反抗や、周囲からの注意・勧告がかからなかったら、言葉の「いじめ」乃至身体への虐待がはじまる。それは言葉だけなのか、複合的な加虐なのか、多様性がありその頻度、重度は百人百様だろう。

そう、何故なのか、どうしてなのか・・最初の疑問に再び立ち返ってしまった。老化する頭をふりしぼって、少しずつ考察を深めていきたい。どうなるか分からないが、「いじめと虐待」について自分なりの確証をもちたいと思っている。もちろん筆者の備忘録としてのブログでもあるので、冷やかに読んでいただくことを願う。

 





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