小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

雪の下のどんぐりを想う

2018年01月23日 | 日記

 

今日は昼間から雪が降りだした。何年ぶりかの大雪予報がでた。ご近所で雪掻きができる成人男性は私ぐらいしかいず、しかも私がいちばんの年少である。少子化どころではなく、無子高齢化が、我がご近隣の実態だ。明日が思いやられる。(夜に人が通れるぐらいの道幅を雪掻きした。体はきついが、後からぽかぽか温まってきて、心は軽い)

▲午後3時頃、自室から銀白色になりつつある街を眺む。

前回の最後に「どんぐりストラップ」のことを書いた。その続きもあるが、雪をみると、林のなかでジッと眠っているどんぐりを想う。雪が降れば、とりあえず見つからない。リスや野鼠が貯蔵した場所を忘れるのは、雪が降るからだと思いたい。どんぐりは静かに、雪の下で自らの命を養っている。運がよければ大樹になる。

どんぐり拾いは幼い頃に誰もが経験したことがあるだろう。でも、いつしか見向きもしなくなるのが世のならい。ただ、私の場合、山や森に行った時、或いは大きな自然公園へ散歩に出かけた時などは、お土産として拾って帰る。これは「癖」にちかい。

寺田寅彦の随筆に、どんぐりを拾う愉しみが書かれてあったが、奥さんが若くして亡くなり、残された幼子と父との場面だったか・・。愉しいどんぐり拾いも、なぜか哀しい印象が残っている

どんぐりが落ちるのは、だいたいが秋。この時季は紅葉をみる愉しみもある。いまは、齢をとったか知らんが、目立つどんぐりしか拾わない。形の大きなもの、立派なもの、ユニークなものを瞬時に選って、樹の種類を判別できれば、その樹のもとで一度にたくさん採れることもある。

「どんぐり」は、「団栗」と書く。団子の「団」と「栗」の字をあてている。今でも、種類は知らないが、「団子」にして食べる地方もある。それが語源か知らないが、「だんごぐり」から「どんぐり」になったという俗説もある。

いや「栗」ほどに美味くないから「ドンな栗」からだ、という言われもある。

栗の実もじつは「どんぐり」で、樹木の果実、「堅果」として分類される。「種子」ではない。しかし、なかには胚種の成分があり、土に埋まって条件が揃うと春先に発芽する。その意味では「種子」と変わらないが、果実はいったん動物の内臓に入って移動する。糞のなかに「種」として排出され、そこの土地で条件が揃えば発芽する。よく考えてみれば、人間・哺乳動物より手続きが多く、環境に配慮している。

種としての「生の欲望」に作用されない「知」がありそうだ。やはり、植物である生命体としての、「一日の長」があるということか・・。

「どんぐり」も少し移動する。主にリス科の動物が、特定の場所に貯蔵する。冬用の食糧として土の下に埋められて、忘れ去られたものが発芽する。だから、移動距離は短く、遠くには運ばれない。どんぐりは栄養価が高いから、熊も人間も食べる。

ドングリは照葉樹の実で、椎(しい)、樫(かし)、柏(かしわ)、楢(なら)、クヌギ、ブナなどで、東京でもたくさん見かけるのは椎科がいちばんで、続いて楢科・樫科のものだ。色・形・大きさも、誰もが知っている「ドングリ」ではなかろうか。ブナは形状が「そばの実」にちかく、変わった「どんぐり」だと思う。

「どんぐり」は前述したように種子ではないが、照葉樹として一本の大樹となる。生命体であるが、経年劣化というものがない、不思議な「果実」で、「種子」の性質もある。拾ってから何年経っても、そのままの色艶でじっとしている。

樹木を連想させる、美しい茶色をいつまでも保っている。何もしなければ、ずーっとその状態を維持している。

そのどんぐりを使って、ストラップを作ったのは10年以上も前になる。区の植樹ボランティアをやっていたとき、年1回のイベントで子ども達向きに「ドングリ・ストラップづくり」を披露した。職員の方も乗り気でどんぐり拾いをやってくれた。現在も継続しているらしく嬉しいかぎりだ。

▲上の方の球体に近いのはクヌギの実。ストラップにしたいのだが、表皮が薄く空洞のなかに種のような塊がある。その他はシイ、ナラなどで、状態は何年経っても瑞々しい。ストラップにしても最適だ。


▲「日本百名山」をビデオに録っていた。深夜みたら「ドングリ」がでてきた。青い実が、熊の好物らしい。

▲トチの実。形態は栗そのもの。すなわち「堅果」。これを磨り潰して、粉にして餅にする。「とち餅」の味は、記憶の彼方に。





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