小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「自由」に生きるとは何か

2018年12月21日 | エッセイ・コラム

 「自由」に生きるとは何か、なんてこと考えたこともなかった。

人間が生まれること、それは「自由」に生きることなんだ、と直感的に思える人はすごい。親に食べさせてもらい、ただ甘えることしかできない子供にとって、「自由」という概念は分からない、今となってみれば・・。七、八歳のころの記憶だが、人間は不自由であり、思い通りにはならないことを、子供ながらに痛感したことがある。 

両親が離婚して、家族がバラバラになって、弟とも別れることになり、彼は長野に行った。そんなとき思った。人間はそんなに容易く「自由」に生きられない、と。

親とか、親に関係する人たちの色々な影響、それを柵(しがらみ)というが、人間は外部要因つまり人間関係や、その環境やらで思ってもみないハプニングで生きることを強いられる。けっこう「不自由」な環境のなかで生きていかざるをえない。そんなことを思う小学生の「自分」がいて、それは大人と同じだと思ったことがある。


現代の我々にとって、「自由」はなじみやすい概念なんだろうか。「職業選択の自由」とか「移動の自由」など現実の社会生活においても身近な言葉であり、容易に思いつく観念のようなものなのかもしれない。(追記:M.フリードマンのベストセラー『選択の自由』は、資本主義の悪しき部分を増長させたのではなかろうか。アメリカ発のグローバリゼーションの端緒、つまり元凶もここにある)

いま忘年会シーズンの真っ盛りであるが、全員参加ではなく、「自由参加」がご時世の風習らしく、女性にはセクハラを考慮して参加をご遠慮申し上げている会社もあるのだそうな・・。そんな「自由」が幅をきかせている。

とはいえ、「自由」とは何か、「自由」に生きるとはどういうことか、と正面から問われると正確に答えられない。
自由の対義語はなんだろう? 不自由か、束縛されている状態・・。身体ではなく、頭のなかの観念として「自由」はあるのか。「頭のなかは100%自由」なんて云う人はいるだろうか?


スピノザは「自由」をこう定義する。
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。
これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である。あるいはむしろ強制されると言われる。

これは第一部の「神について」の定義7にある。
(ちなみに5部構成の『エチカ』では、各部の頭にいくつかの「定義」がのべられ、「公理」に続いて何十もの「定理」を詳細に説明する。「定理」には丁寧な「備考」なども加えられている。)

この定義から考えられることは、自分が能動的にふるまうこと、自らの力が表現されている行為をつくりだすこと、それが「自由」な状態だといえるだろう。「強制」されない点が勘所だ。

しかし、かつて電通の女子社員がパワハラで精神的に追い込まれ、自死の途を選んだことがあった。彼女の自己決定による自死だから、その結果の責任も引き受けるべきだ、と冷たく突き放す人がいた。シリアに行ったジャーナリストがISに何年も拘束されたときも、彼の自由意志と自己責任論だけを論う批評もあった。

スピノザは、人間は完全に能動的になれないという。自由もおなじで完全な自由はありえない。その度合いを高めていくことが大切なんだと説く。

自発的に生きるなんて無理な話なのだ。自死した女子社員には上司のパワハラという外部の原因、拘束されたジャーナリストには真実を知りたいという外部の要請・要因があったはずだ。國分功一郎のテクストには、こう解説されている。

「自由意志は純粋な出発点であり、何者からも影響も命令も受けていないものと考えられています。しかし、そのようなものは人間の心の中には存在しえません。人間はつねに外部からの影響と刺激のなかにあるからです。もちろん私たちは主観的にそのような『意志』が存在しているように感じます。なぜならば、意識は結果だけを受け取るようにできているからです。」

「精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない」というスピノザは、「意志の力」で何かを克服できるなんて人間には無理だと知っていたのだろう。意志が弱いから、アルコール依存症になる、あるいは学校に行かないで引きこもる、そう直截に断定することは絶対にできない、と言っているような気がする。

「100分で名著」は、タレントの伊集院光がMCをつとめていて、『エチカ』が始まるときスピノザなんて聞いたこともなかった、と言っていた。彼は頭の回転が速いというか、ひらめきが凄い人でけっこう難しいテキストも彼なりに読みこなす。

彼はこういう。「難しいことが書かれていますが、人間に対しての『優しさ』をとても感じます・・」と、大きな顔が微笑みにあふれていた。彼のその一言で、スピノザという人の「本質」を適確にとらえていると思った。

哲学者アランは、スピノザの『エチカ』について、そのきわめて明察に満ちた命題や、慎重な註解は、新宗教の「偉大な、美しい章句」のようであると言ったが、伊集院光の言はなんと現代的で、簡明さに徹していると感心した。次回のテーマはついに「真理」となる。最終回だ。

 

 

 

動物、とりわけ犬は意志、意識はあるのか。あるんだと思う。

ネコはどうやら人間よりも自由意志は強くある。その意味では、スピノザのいう「神」に近いのかも。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。