小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

注連縄を考える

2014年01月07日 | エッセイ・コラム

山陰に出かけた。あの出雲大社のしめ縄をこの目で見ることが一番目の理由。
二番目は旬の松葉蟹をたらふく食うこと。
出かけた理由はさておき。

以前、出雲地方から銅剣、銅鐸、鏡などが大量に発掘された。
これまで日本各地から発掘された量とは桁が違う数。
「古事記」の読み直しが迫られたことはいうまでもない。

 出雲神話は実在した王朝の史実であり、出雲大社はそれを裏付ける遺跡である可能性が高い、とクローズアップされたのだ。
 その後、大社の敷地内から3本の大木を束ねた、腐った大柱の実物痕跡が発見されたことも近年のこと。
 むろん古代の建築技術の高さは再評価された。50メートルの高さの神殿が実在し、そこから海岸に向かってスロープ状の廊下のようなものが渡っていたらしい。

 朝貢のようなものがあった・・。出雲に大和朝廷の原型というか、国譲り神話をしめす「裏朝廷」の何かが実在したのではないか・・。そんな仮説が立てられる・・。

 NHKの特集番組で見たのだが、CGのイラストとはいえ想像力を掻き立てられるものだった。
 これらはまた、網野史学を補強するエビデンスであるし、「日本海」の重要性を歴史だけでなく地勢、物流の観点からも見直す大いなる転換になったといえよう。

 大社のしめ縄は写真で見たときのように、迫真の存在感があった。ただ、それは本殿のそれではなく、神楽殿のものであることは意外だった。また、「たいしゃ」ではなく「おおやしろ」というのが本来であることが分かった。長生きすると、間違いや思い込みが知らされる。

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(※写真は神楽殿の注連縄です)

 本殿(正式には拝殿)のしめ縄はちょっと小ぶりではあるが、しめ縄としては普通の神社と較べてみても格段に大きかった。(去年は出雲大社の60年目の式年遷宮。奇しくも去年、20年目の伊勢はすべてを新しくした遷宮。出雲大社は古くなってどうしようもないものを新しくする。それは、三年ほどかけて行われる。だから、いまでも槌をうつ音が境内を木魂している)

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(※この注連縄が正殿に続く拝殿にあります)

 出雲に行く前日。鳥取にある「白兎神社」に行った。大国主命が救ったあの白兎を祀った神社である。そこにあった注連縄の大きさが一般的であろう。

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 私は沖縄の祭りの「網曳き」を見たことがあって、与那原の大網曳はその縄の太さは壮大であるし、縄の先端をそれぞれ男女の性器に見立て、雄縄と雌縄を結ぶ「神事」である。
セックスこそ子孫繁栄、五穀豊穣につながるというものである。

Photo

※沖縄で最も大きな与那原の「大綱曳

 その頃、山口昌男の「中心・周縁」理論に嵌っていた私にとって、これこそ「注連縄」の起原だと勝手に解釈したわけだ。

 そして、この機会に、沖縄の「綱曳祭り」をもう一度おさらいしようと思った。自分の思い込みを戒めるためにだ。
 いろいろ調べた結果、この祭りそのものは15,6世紀、中国伝来のものだそうだ。
健康や豊年を祈願したものだが、いわゆる「注連縄」とは直截、結びつかない。
ただ、疑問に思うのだが沖縄では琉球王朝の時代、稲作はどうだったのだろうか。
あれほどの稲わらを大量に使った縄を編むことはたやすいことだったのか・・。

 今回いろいろ考えるというか、また私流の飛躍的想像力が掻き立てられた。
 まずは沖縄での神事・綱曳は各地で行われるが、与那原を中心としたエリアがなぜスケールの大きい「大綱曳」になったのか。とくに「中城湾」に面している地方である。大和ことばでは「なかぐすく」だ。沖縄の方言では「チュージョウ」という。
 「注連縄」の「連」を取ると「注縄」になる。つまり漢字読みにすると、「チュージョウ」である。
沖縄が島津藩に支配されていたとき、中国起原の行事は自制された。
だから内地のものと同じ儀式だ、と納得させるような「意味換え」が必要とされたのではないか。内地の「しめ縄」と同じようなものだ、と。

 そして「チュージョウ」すなわち中城湾に面する地方の人々がお墨付きをもらい、中国伝来の「綱曳」の儀式が盛んになっていった・・。

 そうなのだ。本国日本がいつの頃なのか、「しめ縄」を「注連縄」と中国語源の漢字を当てているのである。
その歴史的経緯を調べるとさらに面白いだろう。

 「注連」は中国伝来の漢字であるし、しめ縄と同じような神事でもあった。
但し、その意味は結構ちがう。(本家中国にいま「注連縄」があるか知らない)

 日本の「しめ縄」は、あの世(常世)と、この世・うつしよ(現世)との境界、「結界」をしめす。
神社の結界、鳥居とか社の門に「しめ縄」は張られる。正月になると普通の家でも玄関や門に「注連縄」が飾られる。
 

 神事としての相撲、その頂点としての人である「横綱」は、その「注連縄」を体に巻く、あるいは結ぶ。まさしく神様と対面できる「結界の人」だからである。

中国の「注連」は、結界というより「魔除け」に近い。
中国は「死霊」を極端に恐れる。中国古代遺跡から発掘されるのは頭蓋骨のない死体ばかりだ。死者が復活しても平気なように、頭部を切りとって葬ったのである。頭蓋骨はまた呪術的な、別の目的として使用された。

 
 死者の骨に「鎮魂」の印、呪術的なシーニュを刻む。
それが甲骨文字であった。漢字の起原、甲骨文字と金字を探求した白川静は当初は異端の人であったが、今では本家中国も認める正統な学問「白川学」になった。

 だいぶ話が逸脱した。毎度のことであるが・・。

「注連」とは、死霊が入り込まないように、藁に水を「注いで」清める。その藁を「連ねて」、縄にする。その縄を墓の前に張ることが「注連」だという。

(白川学では、注の字は、音符の「主」が燭台のかたちで、油皿のなかで燃えている炎を加えている形だという。つまり日本でも、神聖なる水を藁に注ぎ連ねるように「しめ縄」を作ったのかもしれない)

だから、日本の「しめ縄」に「注連」の字を当てることも、大きな間違いではない。
むしろ「漢字」を使うことで権威づけになる、「箔」がつくと考えた?

 古来の日本の「しめ縄」そのものも、どういうわけか沖縄の綱曳を彷彿とさせる。

「縄を綯(な)う=「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯えの2通りがある。左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作る。左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある」 (ウィキペディアの「注連縄」の項目より引用。私はウィキに信をおいていないが、事実関係を万人が即確認できる便利ツールであると思っている)

 では古代語の「しめ」はどういう意味があったのか? 

年の初めから、私は何をたらたら書いているのか。この辺にしよっと。

追記:今日、書店に行ったら出雲神社を特集した「現代思想」があった。読みも買いもしなかった。読んだらたぶん、この記事は書けなかっただろう。


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