小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

他人様に己を晒すときの涙

2019年07月27日 | エッセイ・コラム

芸能ニュースにはほとんど関心がないのだが、今回の吉本興行の一連の報道は、タレントと社長のそれぞれの記者会見が、嫌がおうにも目に入ってきた。内実について関知しないが、タレント側が二人ともに、男泣きしながら事実を、本音・心情を語る。一人は、よくこんなに泣けるなと思うくらいボロボロ泣いていた。

この光景をみて、彼らはつねに自分を意識・演出している、そんな芸能人の性(サガ)みたいなものを感じた。それは彼らの才能(タレント)であり、素人の私がどうのこうの言う筋合いのものではない。

しかし、なにか違和感をおぼえ、進退を決するとき、謝罪するときの表明の会見においても、だだ漏れの涙を見せてしまう今日的な状況に、「ほう成るほどね」という納得感はない。これは何に由来しているのだろうか。不思議なのだが、両者ともに「家族」をキーワードに「涙」を見せはじめたような気がした。

結束力、互いに支えあう、親は子の面倒を見、子は親に全幅の信頼を置く。そんな「家族」のもつ理想的なイメージをメタファーにして「会社」を語り、それが崩壊した現状を嘆き「涙」を増幅させていった。両者ともに・・。

これは「家族」を持ち出すことで、「涙」を見せることの口実であり、道具として使っている。「涙」こそが他人様に己を晒すときの、共感をよぶマスト・アイテムのようによく使われるようになった。まいど古い話で恐縮だが、涙をこらえる、然るべきときにも涙を見せない、そんな演出が主流だったはずだ、この日本では。

今はもう、「涙」は共感をひきだす演出のツールとして、映画やドラマだけでなく様々な表現メディアに常用的に使われている。

たとえば映画の広告で、試写会の会場で、涙をこぼしながらスクリーンを見ている観客。観終わった後で、会場内で観客が涙しながら,作品の魅力を語る図。これは、やらせなのか本物なのか微妙である。90%は仕込みだと小生は看做す。素人らしき観客が感極まって涙する、その刹那をとらえた図。これらを見せられた視聴者はどう受け止めるのか・・。

突然マイクを向けられた時の驚きと羞恥、と同時に感動覚めやらぬ表情。観終わったばかりの直截な感想、涙を浮かべて語る評価、それは鑑賞に耐える映画の、その素晴らしさ、真実らしさを担保している、というのだろうか・・。ここにはたぶん、宣伝の確かな効果があるというマーケティングデータに裏打ちされた、巧みな訴求であることは間違いない。

そうした広告戦略的な演出かどうかしらないが、吉本興行の社長の記者会見は、タレントたちの涙に比べると明らかに「嘘っぽい涙」であり、社員を束ねる長としておよそ首肯できる一片もなかった。「家族」を会社のメタファーに使うなぞ、もはやアナクロで嘘くささを助長するだけだ。脇を固めるブレーンがいないのか、タレントと同じ土俵に立つことで、再び信頼関係や結束を築きたかったのだろうか。

想像を超えた、見っともなさであったが、他人様に己を晒すときに、このご時世には「涙のマーケティング」が意外にも功を奏するのかどうか・・まあどちらでもいい。

いやいや、涙そのものが物語る本当らしさ、純粋さは、国や人種を超えて普遍性を持ち始めている。もちろんグローバル・マーケティングが浸透していないローカルエリアでは、現在でも、涙を見せることはプライドを喪失し、恥ずべきことだとされている。男は然りだが、女さえも人前では涙をみせない規範はある(詳しくはここで触れない)。

「涙を見せる」ことの文化人類学的フィールドワーク、或いはアナール派のアラン・コルバンなどに「涙と人間の系譜学」みたいな研究をしていただくと、私たちの涙する感情の研究、教育にもあらたな領域を広げるものと期待される。ぜひとも、どなたか若い学徒に、この分野の研究に着手してもらいたい。(いや、もう実際あり、小生が知らないだけかな)

いやどうも、吉本興行の会見の話から、大風呂敷を広げ過ぎてしまったか。この辺にしておこう。

 

追記:他人様に己を晒すといえば・・。前回の記事で、偶然会ったジャズマンとの邂逅、めくるめく体験をした一夜を手記風に書いた。その珍しき椿事というか、興奮の一夜を彼らも共有し、そのことを自身のブログに書いている方を発見した。しかも、小生の名前と写真までも紹介してある。まさに心ならずも、他人様に己を晒すような感覚をおぼえた。

まあ、別に悪いことをしたわけでもなく、肖像権の侵害なぞと小煩いことを言いたいわけはない。生きていれば、こんなこともあるのだ。私だけが楽しんだのではなく、彼らもまた小生との出会いを悦んでくれたのだ。素敵な夜を共にしたのだ。ウフフ。

記念としてその写真の一部を載せる。もちろん顔は公開しない。なぜなら、他人様に己を晒すことの含羞はいちおう持ち合わせているから。名前と顔が知られている有名人ではなく、ひっそりと市井に生きる一般人だ、私は。

▲ブログにはこれで3回目の登場である。恥ずかしくなったら削除するかもしれない。

 ▲サックスプレーヤー、森順治さんの管楽器A.S.&B.Cl. むかし「生向委」のメンバーだった! 道理で凄い吹き手だったわけだ。

 ▲居酒屋で「呼吸している・・」と話していた、ウン十万もするシンバルの持ち主、大沼史朗氏は森氏とおなじ「生向委」のメンバーだった重鎮。その弟子筋か、スネアー・井上氏のブログに紹介されていた。上の写真3点もブログに掲載されていたのものを転載させていただく。

 

 


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