小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「分」と「程」を考える

2013年09月08日 | エッセイ・コラム

稼働9日目して、鮫川村放射能汚染ゴミ焼却炉、炎上?爆発?

 8月20日に本稼働した鮫川村の放射能汚染廃棄物の焼却施設が、なんと9日目にして爆発事故を起こした。
「地響きするような大きな爆発があった」と、施設から500メートルほど離れた民家の住民からの通報でわかったという。
ところが、その後の経過は、事業主体の環境省、運営の日立造船、行政の鮫川村などの対応(情報開示等)はきわめて鈍く、さらに環境省は爆発をたんなる「異音」と称し、事故を矮小化するような対応もあったらしい。
「コンベア内に主灰が少なかった」、「焼却灰の外部への飛散は認められない」、「空間線量率に異常値は認められない」とし、事故の被害が少なかったかのように弁解した。
実害がなかったとしても、近隣住民への具体的な公式説明がいまだにない。言い逃れできない事実関係をまず認めるという、ごくふつうの謙虚な姿勢がない。
このことは民主主義・法治国家の体をなしていない、それ以上の野蛮だとおもう。

焼却炉は運転を中止したままらしいが、当初から危惧されていた事故がこんなにも早く起きてしまった。驚愕すべき事件である。
 

 そもそも鮫川村に建設された焼却炉は、廃棄物となった重油などを焼却するための「傾斜回転床炉」であり、牧草や稲わらなどの廃棄物を焼却するには向いてないとされていた。
性能も疑問視されていて、このタイプを導入した施設は2,3か所しか国内実績がない。
1時間当たりの焼却能力も199キロと小規模で、このクラスだと「大気汚染防止法」や「産業廃棄物処理法」などの環境アセスの規制がかからないという目算があったのか?
 規制をかける側の環境省そのものが、この鮫川村の焼却施設の事業主体。
つまり真摯に大気や土壌、地下水のアセスメント(環境評価)を環境省自身が実施すれば、ウロボロスの蛇のごとく自分の尻尾を呑みこむ羽目となる。

事故を厳粛に認め、今後どのように究明がなされるか、注視しなければならない。

 だが、わたしは何かもっと胡散臭い背景があるような気がする。
鮫川村の焼却施設は日立造船が一括受注したのであろう。なんで造船会社なんだと、最初わたしは訝ったが、大型タンカーの内燃機関をいかした燃焼技術の世界トップ企業だとわかった。この技術をさらにハイテク化した産業廃棄物の焼却プラント建設や「ゴミ焼却発電施設」では、世界でも有数の環境アセス志向のトップ企業である。

 この鮫川村の実験施設の土地所有者は20人近くいたらしいが、その根回しに日立造船の社員が精力的に関わっていたことは周知の事実である。
 まあ普通に推測すれば、何らかの「実弾戦術」が介在しただろう。権益をうける側の行政側つまり環境省が表だって贈賄のような真似事はできるわけがない。
はっきり書こう。環境アセス型優良企業「日立造船」は、環境省の数すくない天下り先だと思う。たぶん役員、取締役クラスに環境省出身者がいるはずである。

 そもそもこの鮫川村高濃度放射線廃棄物焼却炉の建設は、競争入札があったかなかったことも知らない。期間限定の小規模な焼却施設なので、環境省の指定事業なんだろう。
だからといって、放射性廃棄物の焼却はふつうのゴミ焼却とはわけが違う。

 「環境省がやろうとしていることは野焼きレベルだ。高濃度に汚染された廃棄物を焼却する場合は従来、原子力施設内に限られていた」と、
元東電社員が焼却技術そのものを疑問視していたことがまさに現実のものになった。

 どうしてこのような絵にかいたような「失敗」が繰り返されるのだろうか。
福島原発の爆発における結果分析・対策について,このブログに「形式合理性という仮面をつけた頽廃」を書いた。そのどうしようもない失敗に輪をかけた、ちゃちな失敗がこの鮫川の事故だ。
この「失敗の本質」を私なりに読み解くと、「分」と「程」の徹底的喪失だとおもう。

 この「分」は、「五分五分」とか「腹八分」の分である。つまり配分とか分量のことを意味する「分」である。
たとえば「村八分」の意味は、ある住民がなにか過ちを犯したとき村全体から従来通りの付き合いはしないという宣告である。
 とはいっても、全くの「十分」の絶縁ではなく、二分くらい、つまり冠婚葬祭ぐらいはなんとかするよというもの。人としてあたりまえの付き合いは保障するというものだ。

この「分」という考え方は、武士社会ではさいごの「砦」のような意味をもった。
いわゆる「武士の一分」である。武士としてのぎりぎりの「体面」。
下級の武士であっても、あまりにも理不尽かつ武士の面子を汚された場合、上司いや主君にたいしても諫言などすることが許された。
最後に残った「矜持」つまりプライドのような意味にもなった。そうした誇り、矜持をもつことで、西欧にはないある種の「正義」があった。

 この「分」が単位を意味する言葉だとしたら、その全体を見る、はかる言葉として「程」がある。
実力に「程」を知る。身の「程」を弁える。
こうした日本の言葉は、独自の「知の体系」がなければ発想しえないものだと思う。

今回の鮫川村の一連の出来事、顛末は、ある種のひとを見縊るような傲慢さが露呈したのでないか。


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