小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ブリコラージュとはなにか

2022年06月29日 | エッセイ・コラム

プリコラージュなる言葉が日本の世間にない概念を提示しているならば、貴方は、それを貴方がどう解釈してあられるか(ママ)、それを読者に開示すべきだ。
日本語にない概念ならば、それを貴方なりにどう解釈きているか(ママ)、情報公開せねば不公平だろう。だからスカしていると書いた。
その概念、つまり日本語にない事をどう貴殿が理解されているか、それを公表せすに読者に委ねるのは不公平だろう。不特定多数に向けた、公に向けたブログを記しているのだから。

先日、当ブログに熱心に投稿いただいていたスナフキン氏より投稿があった。その一部が上記ゴシックの記事である。氏の言うことは一理あり、ここに新しく記事を書くことにした。スーパーボランティアの尾畑春夫さんと故小野田寛郎少尉について書いた古い記事が関係していて、拙記事の内容にたいそうな不快感をしめされた。何度かのやり取りの末に、小生はこれより、スナフキン氏のコメントを非公開することにした(追記:ブルグ主としての一方的通達か?)。もし、それらの経緯について、興味がある方がいたならば左記コメント欄からあたっていただきたい。(別記)

ここに遅ればせながら、「ブリコラージュとはなにか」を私見として書き残しておく。

ブリコラージュ(Bricolage)という概念は、人類学者のクロード・レヴィ・ストロースの著作『野生の思考』において、ある種のコンセプトワード、キーワードのように使われた。「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 "bricoler" に由来するとのことだ。

そこから派生する「ブリコラージュ」は、ストロースの造語であるのか、文化人類学の専門語として定着していたかは詳しく知らない。『野生の思考』の翻訳者もそのまま表記していたかとおもう。

他にも、翻訳者でもありストロース研究者でもある川田順造や渡辺公三らも、数多くの論評には「ブリコラージュ」と、そのままカタカナで表記していたかと思う。彼らもスカしていたかもしれない(比較検証できない。この2,3年で、これらの関連本を整理したことを悔やむ)。

今「ブリコラージュ」を繙けば、その用語説明によると「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」ことだと簡明に説明されている。ただ、文化人類学の用語としてだけでなく、思考の用語として、モノをつくる意味の「エンジニアリング」との対義語として扱われているようだ。このことについては後述。


さて、ストロースの『野生の思考』は、構造主義を旗揚げするような先駆的な作品で、60年代以降の思想・哲学を、ある時期までは牽引した重要な書物といえる。
彼は南北アメリカ大陸の主に先住民の生活や言語、親族の基本構造(近親婚の禁忌)や身代わりの供犠、祀り、食生活の構造などを調査した。一見、文明・文化的に遅れている、劣っているとされる先住民たちの知性、つまり観察力や判断力、そして思考方法において、ストロースは、われわれ現代人とそれほど大差ないと位置づけた。

アマゾンで狩猟採集生活をしている先住民族は、未開の森林に生息する何千、何万の植物、昆虫を見極め、その効用あるいは危険なのか熟知している。その知の働きは、文明社会に生きる我々と比較しても遜色ないとした。

さらに採集場所、分類・保存方法を経験知としてストック、子孫などに伝える。その間に、毒性のものを処理して薬用にするという化学変化を応用する知も蓄えるのだ!(欧米の薬品及びケミカル関連会社はそれらをそのまま盗用し、知的所有権として登記する。さらに、将来有望な動植物の遺伝子のゲノム解析も同じように独占しようと企み、国際市場でほぼそれは浸透している)

特にアマゾンにおける先住民族たちの知の営みは、何千年前から祖先の叡智の蓄積であり、それらを生かした思考法も彼らなりに進化させてきた。そこに「ブリコラージュ」という概念がある。

(私見から想像を頼りにして書くとこうなる)たとえば、未開の地であっても、文明人が偶然に訪れ、先住民と交差するような場所がある。そこで、空き缶のプルトップのようなものを先住民が拾ったとしよう。彼にはそれがなんであるか分からないし、使えるかどうかも心もとない。しかし彼はそれをそのまま取っておく。

あるひらめきが不意にやってくる、光っているプルトップを使って、果物を切るナイフのように使うことを思い立つかもしれない。いや、硬い石で叩いて、加工するうちに棒状になる。彼はそれを見ながら、魚を釣るための道具を思いつく。釣り針の誕生である。これこそが「ブリコラージュ」である。

アフリカ大陸のサバンナであっても、原住民はちょっと形状の変わった木や石などは持ち帰っておくそうだ。つまり、いまその時使わない無用なものでも、なにか心にときめくもの、なにかひっかかるものであったら、住居の片隅(あるいは自分専用の秘密の保管場所)にストックするのだ。

さてさて。ネットで検索すると、以下のように端的に紹介されていた。これまで説明したことを、端的に簡明に表現している。
フランスの文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。

ブリコラージュによるものづくりを「野生の思考」としたならば、近代以降のものづくりはエンジニアリング思考といえる。こちらは、あらかじめものの最終形が見えており、その設計図もある。それは科学的な思考の結実であり「栽培された思考」と呼んでいる。カルチュラルスタディーズが発展した結果、このエンジニアリングに対比させて、ブリコラージュを現代社会にも適用されるべき、普遍的な知のあり方があると考えられている。

この二つは対立概念ではなく、相互に補完し合う概念であり、その双方向から思考してモノづくりを進めようとする考え方であると思う。これは今回、スナフキン氏に指摘されて、ブリコラージュを改めて見直し、調べたところわかったことだ。このことに関しては、氏に感謝の意をここで表したい。

(別記)ボランティアの尾畑春夫さんは、被災した現場におもむき、彼独自の道具を使って周囲のボランティアが驚くほどの活動をする。自前の道具もあれば、単なるドライバーを思いもよらぬ場所で使って、凄い効果を発揮する。彼はそれらの道具を軽トラに積み、飄々と現地で使いこなし、アイデアもまた然り。その彼を「ブリコラージュの男」として記事を書いたのだ。

追記:本家フランスにおける「ブリコラージュ」の言葉の意味と使われ方

比較文化史家・バロック音楽奏者の竹下節子氏より「ブリコラージュ」の一般的な意味と使われた方をご教示いただいた。たいへん有難いことで感謝感激。

ブリコラージュは普通のフランス語としては「日曜大工」です。フランス人のレジャーの一つと言っていいくらいでブリコラージュ用品の大型店は「男たちのディズニーランド」と言われるくらいです。それが人類学の用語として使われているのを知らない人の方が普通でしょうね。日常会話では、これってブリコラージュだよね、というのは「素人仕事」だという揶揄の意味もあります。その意味では、レヴィ・ストロースの使い方も今の時代では上から目線を感じさせるかもしれません。肯定的な文脈では、今風になら「レジリエンス」っぽいかなあ、という感じです。

竹下氏については度々このブログでふれている。来日したときの音楽会や講座には出席しているので、小生を見知っておられるかと思う。昨年『疫病の精神史』(ちくま新書)を上梓されたが、近頃、カナダのケベック州に行かれ、現地のカトリック聖教会などを精力的に訪問されるご様子が、氏のブログに連載されている。仏加の宗教比較、北米大陸のカトリック受容の変遷史などだろうか、どんな著作として結実するか楽しみこの上ない。氏のブログ⇒ L'art de croire https://spinou.exblog.jp/

 

▼おまけに私的近況をすこし披歴したい。昔の人の知恵、梅干しづくりに嵌っている(大きく言えば、梅干しはブリコラージュの延長か?)。シンプルな塩漬けにした梅から梅干しがうまかった。数少ないアルカリ食品であり、和歌山産のものはけっこうな値をはる。最近、隣家の梅木に大ぶりの実が数十個実っていて、熟すに任すのみであった。で、かけあってみたところ、気前よく分けていただいた。

▲一番初めの梅。これらは落ちていたもので、部分的に痛むのが早いものが多かった。処理して、それらも無事に梅干しになった。

▲お隣さんからいただいた梅。大ぶりが多く、楽しみである。

 

ついでに最近散歩して気になったもの。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (小寄道)
2022-07-04 02:18:25
コメントありがとうございます。
柳宗悦ですか、いいですね。内田樹氏の著作は前はよく拝読してました。
柳宗悦のブリコラージュ論があったら凄い。興味津々です。彼の頭のなかにあったのは、まずは「美しさ」だったと思います。
だから、ブリコラージュとはちょっと遠い感じをうけますが、内田氏がどんな見方をしたのか、とっても気になります。
ともかく、コメント感謝です。
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ブリコラージュ (メロンぱんち)
2022-07-03 23:26:43
ああ、なるほど【ブリコラージュ】という言葉を掘り下げると、そうなるのですね。

私の場合、内田樹さんの著書か何かで触れられていて、それが柳宗悦の民芸運動と重ねて語られていたなという記憶がありました。基本的には、そこら辺にあるものをどのように使用するかの意だと説明してありました。

民芸になると実用的である事を極めると美しいになりますが、アルフォンソ・リンギスもカントを引用しながら本質の美しさは外観の美しさに繋がっているという主旨の話をしていました。

色々と芸術や哲学の概念って、繋がったりしているんですね。それが少し実感できた気がします。
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