小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ある「弱さ」について

2018年05月23日 | 日記

 

彼は自分について「弱さ」があると語っていた。

その「弱さ」ゆえに、理不尽な指示にしたがい、不本意に不当なことをしてしまった、と。

それは自分に「弱さ」があるからこその結果だ、と。

彼が正直に語った「弱さ」は、この世界を反転する「強さ」になりえる、と私はおもう。

このことに気づく人はまだ少ない、自分の「弱さ」を認められる人は、さらに少ない。

彼は少なくとも真実をはなし、誠意をもってあやまり、公けに自分の「弱さ」をしめした。

決して涙をみせず、弁解もせず、頭を深く下げてのぞんだ初心の意志を、最後まで持続させていた。

このことは限りない「強さ」であり、彼の独力によるもの、と私は思っている。

彼が示した「弱さ」につけこみ利用する、卑劣な人間がいる組織がいまだにある。

組織とは大学であり、ブラックと呼ばれる企業もある。「弱さ」につけこみ利用する、そんな社会がある。

確かに、彼は自分の「弱さ」と「強さ」の違いに気づかなかった、若いから仕方ない。

この道理を、この国の首相、財務大臣、元財務官僚、どこぞの市長etc.たちは「忖度」できるだろうか。

彼の「弱さ」というものが、ほんとうの人間的な「強さ」であると思わなくともいい。

組織の上に立つ人、要や中枢にいる人が、自分の「弱さ」を気づき、認めることができるのだろうか。

多くの他者からの承認をえることより、たった一人の自分の「弱さ」を認めること。

それが人間としての本当の「強さ」であり、死に至るまでつづける作業だとしたら。

そして、その「強さ」は決して偉くも、誇るものでもない。

上下なく、強弱なく、そしてきれい事なく・・・語り合い、確かめ合うことだろう。

 

 ※今日は特別の思いを込めて書いた。彼の真摯な釈明であり、心からの謝罪であった。ふつうに心を打たれ、二十歳そこそこの青年にここまで曝させる社会というものに諦念を抱いた。市井の一高齢者として、この日本の指導者層にたいして慨嘆するばかりである。

 

 

▲ご近所に咲いていた大輪のバラの花。

▲紫陽花の咲きはじめる頃の微妙な色合いもいい。

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