小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

悪を語れ

2016年10月08日 | エッセイ・コラム

 

あの相模原の事件からだいぶ経っているが、いまだに収まりのつかない思いが残っている。植松聖という固有の人格について色々考えているなか、偶然に姜尚中と若松英輔の二年前のユーチューブ対談に行きついた。 で、二人は、近頃の若い人が現実世界のなかで何にリアリティを感じているかという話をされていた。

両者ともに講演会などを独自に行なっていて、聴衆の若い人の特長の一つとして、良いこと・徳・善行に関する話題には関心を示さないらしい。その反対に、犯罪や悪行に関するテーマになると、俄然関心を示すということだった。その興味の示す反応が異様ということで、二人は共通点を見出したのだが、それ以上の分析や発展には及ばなかった。「こころ」とか「霊性」について、姜と若松のテーマが絞られているので、「悪」についての二人の話は、さらなる進展がなかったのは当然ともいえたが・・・。

日頃、家庭や学校では、立派なことや良いことだけが推奨されている。表向きには、子どもたちに「悪」に関する話題を振り向けることはないのだろう。俎上にのぼることもなく、「悪」というテーマ、話題は排除されているのか・・。そのことで今どきの若い人は、「悪」そのものにリアリティを感じられず、正面から本質をとらえようとしないのか。

しかし、人間には「悪」が内在している。人間は良いこともすれば、悪いこともする。池波正太郎などを持ちだすまでもなく、多くの文人、哲学者らは「悪」を語っている。悪を語ることで、人間の本質を浮き彫りにすることは常套手段だ。

実際のところ、思春期の少年たちに対して、積極的に「悪」の本質を考えさせる教育や、動機づけなどはなされていないと思う。悪の端緒は、非行や不良にはじまる。それはやがて傷害や殺人など犯罪行為に行きつくという単線的なプロセスと結末しか示されていない。隠せば見たくなる。閉じれば開けたくもなる。もし「悪」について興味をしめす少年がいればその場で考えさせる、そして対峙させ想像させる。誰がその役目を負うか、はたと考えたとしたら、それは「悪」だと心得よ。

人間の中に「悪」が内在することとは、どういうことか。何が「悪」で、何が「悪」でないのか。

人間が根源的にもつ悪の感情、怒り、蔑み、差別などは誰もが幼少時からもつ。よほど恵まれた環境の中で育てば、そんなことには気づかずに成長できるが、少なくとも私が少年のころは誰もが「悪いこと」をしたものだ。とはいえ、何が悪いことなのかは判断できなかった。親に怒られたとき、打たれたときに、悪いことをしたのだという認識しかなかった。

私が子どもの頃はどこぞの知らない大人が堂々と子供を叱った。昔、小学生だった頃、大工さんに悪戯だったか悪たれをついた。細かいことは忘れたが、私たちは即行で並べさせられ、当の大工さんから張り手でぶたれた。一同シュンとしたが、世間にはこういう大人もいるのだ、子供ながらに考えたものである。

いまでも若い人の中には、「ヤンキー」という言葉で「非行に走る」ことをいうらしいが、彼らはある意味で、人間の「悪」の内在性に気付き、人間社会の欺瞞性を鋭敏に嗅ぎ分けたともいえる。さらに、実体験へと向かった奇特で行動的な人だといえるか。もちろんそれは本人の主体性に基づくものでなくてはならず、第三者による甘言、誘惑によって単なる「仲間入り」では、「悪」を体現したことにはならない。つまり「悪」の真相をつかんだことにはならない。

「悪」を恐れ、忌避するという習慣はなぜ、いつできたのであろうか。

若い人たちに言いたいことがある。もし自分の心の奥底に「悪」を探求したいという欲望があるのならば文学を読んでほしい。まず、ドストエフスキーの「罪と罰」。老婆を殺す話だ。それ以外のことは言わない。次に、マルキ・ド・サド。「悪徳の栄え」あるいは「美徳の不幸」がいい。人間が想像できるありとあらゆる悪が詰まっている。18歳以上とか限定したくない。注意すべきは、あくまで文学作品だからフィクションであり、それに感化されてほしくない。

もっと追求したくなれば、エーリッヒ・フロムの「悪について」をすすめたい。

普通の人が異常な権力をもつと、とんでもない蛮行、破壊の限りを尽くす。悪の哲学、人間の真理を徹底的に解剖する。ナチス・ホロコーストのヒットラー、大粛清のスターリン、ローマ時代のネロなど歴史上の「悪の権化」たちの実例をあげて分析した。難解なところもあるがフロムは悪の最も有害で形態は三つあるという。死の愛好、悪性のナルチシズム、近親相姦的固着。この三つが重なるとさらに、憎悪のための憎悪、破壊のための破壊へと駆り立てられる。詳しくは述べない。

フロムはこう書いた。

悪ということは特別に「人間的」現象である。悪とは人間以前の状態に退行し、特に人間的なるもの、すなわち理性、愛、自由を排除しようとすることである。・・・人間は一つの解決法として、悪に満足することは決してできない。動物は生きるために根源的に必要な生来の衝動にしたがって行動する。悪ということは、人間的なものの領域をこえて、非人間的な領域に移ろうとすることである・・

「自由からの逃走」、「愛するということ」など日本でもまだ人気があるフロム。この「悪について」は、彼が65歳(今の私!)のときの著作であり、師匠フロイトをこえる思想の高みに達したと私は評価している。
 
さて、日本において「悪」についての言説は、歴史的にも意外に少ないのはなぜだ。それはたぶん中国経由の儒教的な、性善説を基調とした「礼・智・仁・徳・孝」など孔子や孟子の教えが浸透したからだろう。
論語に「怪力乱神を語らず」という教えがある。「怪」とは怪異、「力」とは超人的な力、「乱」とは無秩序、混沌、「神」とは鬼神のこと。「悪」とは名指ししないものの、人間に悪影響のあるもの、不可解なもの、淫らなものなどを語るなという戒めである。論語を読めば、悪には染まらない? 
障碍者、高齢患者は役立たずだから殺してしまえの今のご時世を、孔子・孟子さまが見通したら何んとするであろうか。 
 
当の中国では孔子の時代から二、三百年後になると、荀子や韓非子らの「性悪説」が幅をきかし、人間を徹底的に縛り管理する法体系をつくりあげる。人間を野放図にさせておくと必ず悪行に及ぶということで、信賞必罰の刑罰制度をつくった、その秦・始皇帝はあまりにも有名だ。「性悪説」に基づく制度のインフラを実質的につくりあげた韓非子も凄い。ただし、自堕落で悪を内在する私にとって、「法家」の思想は厳しく息の詰まるものといえる。現代にも十分に通用する「韓非子」について、私はいつか触れなければならないだろう。
 
秋の夜長。ふだん考えていないことを書いてみた。試行錯誤のはての乱文ですが、秋の深まりを感じての勢い。大目に見てくださいということで・・
 
 
 
 
▲動物には「悪」はない。「善」もないが・・。こいつはなにかありそうな気もするが、気のせいか。(妻撮影)
 
 
 



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