小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

身近なところで日々を愉しむ

2016年05月04日 | 日記

 

この連休は金をかけず、手近なところを散策することにした。昨日は銀ブラ。トルコ料理のランチの後、カミさんが目当てのパラリンピック・イベントに行った。定刻前に着いたが、メイン会場は予想をこえた人だかり。気力の萎えた私は移動車の大型ビジョンで中継映像を鑑賞。障碍者のスポーツは今やパラリンピックを頂点に、多くの人が注目するようになった。

金メダルテニスプレーヤー国枝慎吾はじめ、女子トップの上地結衣らのプレーや、車いすに乗った杉山愛さんとのテニスマッチなどを観戦。普通のテニスにはない新たな魅力、奥の深さに見入った。障碍者のスポーツでは車いすを使った競技は多いが、その素材、ハイテクなども見所のひとつ。国枝選手のそれは、身体を左右に揺らすだけで前進する。人と車いすが一体となった、惚れ惚れする動きだった。しかし、国枝選手の外国のライバルは、すべてカーボン製の、なんと1500万円の車いすに乗っているとのこと。コート以外での別の闘いもあるのだ・・。

東京都のバックアップ、宣伝効果を狙った企業のタイアップもあるこうしたイベント。まずは障碍者が表に立ち、スポーツを楽しめるという文化の底上げになる。などと、考えながら観ていたのだが、現実は障碍者のスポーツは特別でもなんでもない。一般のひとが普通に観戦し、彼らのプレーを見て感動するはずだと実感した。いうに言われぬ差別や排除のプレッシャーを彼らは受けてはいまいか、そんなことは余計な勘ぐりだった。もちろん、表面には出てこない差別、差異などの問題は多いだろう。が、少なくともパラリンピックを通して、障碍者は普通の一個人であると理解されれば、差別という意識・感情は地球上から払拭されるはずだ。そんな当たり前のことにやっと気づいた一日であった。

(追記:30年以上前になるか、橋本治から教わったことを思い出した。「身障者は不自由な人々ではない。社会というシステムが不自由なのだ。僕たちみんなが障碍をもって生れると仮定したら、社会は僕たちにとって最適なように作られるはずだ。だから、心身の障碍が差別の対象になるなんて本質的に間違いなんだ」と、治ちゃんは語りかけてくれた。涙が出るくらいに嬉しく、そうだと思った。投稿してから、いちばん言いたかったこと・大切なことを忘れていた気がした。思いだせることができて、耄碌をすこし食い止めた。 5月4日記)

 ▲バスケットボールの模擬イベント。帰った後でニュースを見たら、ラグビーのイベントが面白そうだった。車いす同士のアタックは壮絶そのもの。生で見られたのに残念至極。

 

               

▲国枝慎吾選手     ▲カーリングに近いボッテャ     

▲三原橋近くのトルコレストラン「コンヤ」。男性が激しく回転する、伝統ダンスが印象的だった土地の名前。昼時なのに客はいない。私たちが独占した。料理は旨かったしリーズナブル。

 

5月3日

今日は地元の一箱古本市を巡った。10年ほど前に、私も店主として参加したことがある。以前は2日間の開催であったが、参加者が減ってきているのか今日一日のみだ。全盛期は、ゴールデンウィークと秋の「芸工展」に併せて年2回も行われたこともあった。やはり本を読む人が少なくなっているのだろうか。わたしはビブロマニア(古書狂)ではないが、古本屋を覗くのは十代の頃から好きだった。わが町、谷根千にも狭いながらも7,8軒あり、今年になってからも3軒が出店した。それぞれの店の特長を生かして、魅力的な町づくりに貢献してもらえればと願う。

最近は集中した読書はできない。積読は止めてほしいとカミさんからのお達しがあり、矢鱈に購入はしなくなった。古本市は掘り出し物があるゆえ、それなりに楽しみであったが、自分にフィットする本が少ない。世代のギャップというより、「古臭いぞ私は」である。

 

 ▼今日、買い求めた本。品切れ、絶版のもの。

 

 

古本市の後は、上野動物園脇の池之端グリーンプラザに行く。初心者のための盆栽が充実している。珍しい草花もある。年に何度か、プロが売り買いする展覧会も開催される。紛れ込んで、彼らの話しに耳をたてるのも一興である。 

          

 ▲池之端のグリーンプラザで気になった草花。

 

 

 

 

 

 

 

 


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