小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

日本の常識は、世界の非常識

2017年05月12日 | エッセイ・コラム

 

 

常識は、英語ではコモンセンス。明治期の翻訳語であろう。江戸時代には「常見」という言葉があり、小林秀雄によれば、ひとは「常見」の世界に生き、「常見」で世の中を見ていることになる。但し、この「見」は「識」ではなく、視点を違えて別の見方をすれば「常見」とは違う面がみえる。

つまり様々な「見」を総合して判断を下せば、そこに真の「常識」が立ち現れる。以上は、山本七平の受け売りであるが、江戸時代の「常見」ぐらいのモノの見方の方が、縛りが少ないというか、固定観念に捉われることはない。常識にはつまり普遍性などないのだ。

今日の新聞をみて、日本の現代の「常識」というものが、いかに世界の「常識」とかけ離れたものだという記事が二つほどあったので、それを記す。

その一つがGPIF(年金積立金運用法人)が、非人道兵器の「クラスター弾」(※)を製造している米テキストロン社の株式192万株(80億円)を保有していたことが発覚した。

「クラスター弾」については、既にその製造・使用を禁止するというオスロ条約が2010年に発効され、日本がそれに加盟していることは周知の事実である。

GPIF側では、委託先の運用会社がほぼ自動的に複数の株を購入する仕組みがあるため、テキストロン社の株銘柄を選択したのはやむを得ないとする。さらに、GPIFを所管する厚労省の見解が、いかにも「常識」をふりかざすような傲慢さがあり、見逃すことはできない。

年金を増やすという原則に抵触しかねない。担当者の好みで運用ができないように、GPIFが直接投資先を選ぶことも禁じられている」(東京新聞5月12日朝刊)との持ってまわった見解だ。

年金が増えるのであれば、社会規範に逸脱しているどんな企業にも投資する? こんな非常識な話はない。GPIFは、莫大な資金運用を委託する大口顧客である。であるなら、あらかじめ選択しない株銘柄を指定できるだろうし、その裁量権さえも法的に認められるはずだ。委託会社にしても、それを当然のごとく受諾し、株運用のプログラムをGPIF向けに書き換えることは出来る。

昨今、武器輸出関連法案が改正されたことで、日本の武器関連の製造に拍車がかかっているらしい。それも、やりたくもない、また儲けがほとんどないという武器部品の製造。それが高品質が求められる多数の部品として発注され、請け負う中小企業への理不尽なしわ寄せとしてのしかかっているという。「明らかに非倫理的、非人道的な武器製造に関わるだろう」と、町の工場は百も承知らしいが、それが新たな「常識」を形成しつつあるとしたら問題だ。

東京新聞によると、武器関係製造に関する取材をすると、取材拒否や門前払いする企業が増えているという。平和国家を詠う日本が、武器製造になんら痛みを感じない緩さが蔓延してはいないか。それが日本の常識だとしたら、戦前の日本と同じだし、司馬遼太郎が慨嘆した「鬼胎の時代」はふたたび甦ったといえる。

年金運用は、社会公共の観点から「責任投資」を実施するのが世界の常識だ。カナダ、オランダ、ノルウェー、スウェーデンなどの年金運用は、クラスター弾関連企業を投資対象から当初から外している。新聞では高崎経済大学の水口剛氏の提言「ルールを定めて外部委員会に設けるなどすれば倫理に反した投資を客観的に選別できる」ことを紹介していた。当然なこととして肯ける。

もう一つ、日本の非常識。

北海道江別市の江別すずらん病院認知症疾患医療センター長の宮本礼子氏のインタビュー記事だ。端的に記せば、日本で行なわれているチューブで胃に栄養を送る「胃ろう」をつけるなどの「延命治療」は海外ではいまほとんど実施されていないという記事だった。

宮本氏によれば、欧米での終末医療の実態を視察して、終末期の高齢者にはほとんど延命措置を行なっていない。特に、北欧諸国、アメリカ、豪州などでは、終末期の認知症患者の、ほぼ全員の家族が「何もしない」ことを選択していたという。

母を「胃ろう」で延命させた家族として忸怩たる思いもあった私には、ちょっとしたショックであった。記事に書かれていたように「戦争で多くの命が失われた反動なのか、日本人は死を認めない傾向がある」のか、肉親の最期を少しでも伸ばすのが家族の役目、そんな「常識」に囚われていなかっただろうか。

私もいい歳になり、身体の調子も万全とはいえない。自分も家族もなっとくできる最期を迎えるために、「寿命」という常識をもう少し叩き直さなければならないと感じた。

      

 

非常識のネタでいうと、もうひとつ夏の季節のクールビズ室温の「28度」が適正かというものがあった。これは体感温度は、個人差が大きいだろうし、また国際的にみても「常識」という尺度で設定できるものではない。というのはニュースで、「人間が裸でいるときに、快適とかんじる温度が29度だ」とあった。いかにもそれが常識のように解説していたが、北欧人にとってみれば、29度はとても快適だとは感じられないのではないか。日本の寒い冬の気候でも、彼らは暑く感じるらしく昼間ならTシャツで闊歩していた。

「28度」という基準温度を論議するよりも、外気温との差を考慮すること。省エネや経済性から導きださされた推奨温度などを考えるべきではないか。それを環境にあわせてプログラムを開発すべきではないのか。日本は地域差が大きく、一律の温度設定はおかしい。職場の空調環境においても、男女差を考量した可変式温度センサーがほしいところだ。

常識なるものが、知らないうちに作りあげられ、いつの間にかそれに縛られる。日本のそれが世界の非常識としてもの笑いの対象となる。そんな例がいくつあるか、考えるだけでも恐ろしい。

 

        

 

(※)クラスター弾については、かつて「劣化ウラン弾について」を書いたときに少しふれた。大きな爆弾の中に、数百個の子爆弾が詰まっている。親爆弾が上空で割れると、広範囲に子爆弾がばらまかれて人々を殺傷する。不発弾が多いために、後に子どもが拾って爆発したり、金属部分を転売する目的で分解する時に爆発するなど2次被害も深刻なものになる。また、貫通力を増すために、比重の重い劣化ウランを使用することもあると聞く。



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