小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

意地悪と知性は仲がいい

2019年12月20日 | エッセイ・コラム

「難しい(ムズカシイ)」を簡素化する若者ことば、「ムズイ」について触れたことがある。その用法ではさらに、その上の「ムズ」がある(これらの語感は嫌いだと書いたが、今回の言いたいことは別のこと)。

若い人は、難問や難局に直面すると、開口いちばん「ムズ!」と、のたまう。口にしない場合でも、たぶん頭のなかでは、「ムズっ!」と言っているのではないか。ことばの使い方を嘆くよりも、その凝縮度つまり情報密度化に感心してしまう。

おなじ用法に、恥ずかしい、「ハズイ→ハズっ!」という活用形がある。これらの言葉の省略化は、たぶんネガティブな感情の表出をともなうために、堂々と口に出したくない制御本能が働くのであろう。子供側からみれば、都合の悪いことや揶揄されることを、大人には知られたくない。そんな心理と同じかもしれない。「恥ずかしい」と率直に口にだせず、「ハズ!」と照れ隠しにいう若者の気持ちもよく分る。

日本語はそもそも古来より、その発音や意味がランダムに変化してきた言語である。これが正しい、正統だという基準もなければ、原理もない。原理主義でがちがちの言語学者がたまに、この語法は正しくない、そういう用例は不適正だと苦言を呈する人が結構いる。こちらは素人だから畏まるが、言葉づかいに厳格さを求めるなんて、どうも胡散臭さを感じてしまう。

とはいうものの、日本語はやはり美しい言語であるし、その発音の旋律、抑揚とテンポは世界でも群を抜いて気持ちいい音を響かせる「ことの葉」だろう。言葉そのものの音が心地よく響く、というより馴染む、懐かしむという作用があるのではないか。

 

今年1月に鬼籍に入られた橋本治の、『いとも優雅な意地悪の教本』を開いてみた。ある種の日本文化論、あるいは「正義論、知性とモラル」に関する著書といっていい。治ちゃん(注)は、頭の働かせ方と言葉の使い方の用例、日本ならではのモラルの効用などを明らかにしながら、「意地悪」という「知性の働かせかた」にどんな力、機能があるかを論じている。筆者にとってはまた、「治ちゃん節」が楽しめる高度なサブカル本でもあった。

この本の第3章に「樋口一葉は頭がいい」というのがあって、一葉の文章がなぜ名文であるのか、美しい日本語なのかを論じている。まず、代表作『たけくらべ』を俎上に載せる。

吉原という遊郭の大門(エントランス)の反対側、うら淋しい竜泉町に棲む主人公「みどり」という少女について、橋本治は「意地悪が目立たない頭のいい」女性であることを指摘してやまない。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行き来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、・・」

小説『たけくらべ』は、近代の女性作家、樋口一葉の傑作として名高い。そのリズミカルな言葉遣い、印象に残る言いまわし、それらが格調ある文語調で綴られていることは、誰でも読めばわかる。文脈よりも言葉のつながり、テンポを大切にしていて、言葉遣いそのものに江戸文化の神髄を見出してしまう。

講談を語るような流麗な文章をCDの朗読で聞いたことがあり、なんと優雅なものかと新鮮な驚きがあった。残念ながら一葉は、結核に罹り24歳で夭折したが、もし長生きしていたら露伴級の作家になったとおもう。

▲『たけくらべ』にも出てくる千束稲荷神社。そこにある一葉像。「廻れば大門」というフレーズは、そこが竜泉あたりだということだ。

一葉の文章が名文であるのは、意味の繋がりよりも、端的な言葉が流れるように綴られていることだ。橋本治の非凡なところは、そこに「意地悪という知性」を発見したこと。上記に掲げた書き出し「廻れば大門」、この言葉だけでも意地悪さが隠れているという。

吉原という場所、方角を知らないと、「廻れば大門」というシニフィエ(意味する中味)は理解できない。吉原は塀に囲まれていて、「大門」という正門からしか出入りできない。つまり「廻れば」とあれば、裏門がある竜泉町あたり。ここには鳳神社がある。年に2,3回、花魁たちは、酉の市のお参りのために裏門から外に出入りするのだ。(ふつうは関係者通用門だったらしいが、いつの時代にから一般人も中に入れたらしい。)

裏門側の説明を省き、「廻れば大門」というフレーズを初っ端に据えた理由は、ここにある。くだくだと説明することは省き、主人公がいる場所の雰囲気を伝える。意味はさておき「廻れば大門」は、とにかく調子のいい言葉だ。

(竜泉に僅かな期間だが、荒物駄菓子店を生業として一葉らはどうにか暮らしていた。貧窮し、知人の目を避けるために本郷から移転したのだが、竜泉にいたのは1年未満だった。その後再び、本郷に戻り、有名な「奇跡の14か月」がはじまる)

一葉の文章を読んでいると、たしかに言葉とことばの繋がりが分らなくなることがある。いやいや、意味のはしょり・飛ばしがあれば、古い言葉遣いの字面を追っていくだけで精一杯。文脈が理解できないというより、意味のつながりをいつの間にか忘れてしまう(個人の経験だけど)。

そこにこそ多分、一葉の「意地悪」が働いているんだと、治ちゃんは丁寧に読解してくれる。そして、「流れるそのことが美しい」のが要諦だ、と・・。

詳しくは『古典を読んでみましょう』という本に書いてあるらしいが(未読)、この「意地悪本」では、『たけくらべ』の(九)⦅如是我聞、仏説阿弥陀経、声は松かぜに和して心のちりも吹はらはるべき御寺さまの・・⦆で始まるさわりのところを、文節ずつ丁寧に意味を取り出して解説している。枕草子、平家・源氏物語を現代語訳した橋本治ならではの解釈、これはもう「意地悪」を感じさせない理に適うものだった。

ここではいちいち紹介しないが、冒頭で紹介した「ムズイ・ムズ!」の問題にも関係していて、言葉の省略、意味の飛ばし・文節の端折り、リズム・テンポの優先は、使い手に知性がなければできない。語られた言葉としてスムーズに耳に入ってくる。時に、気持ちよい音の響きとして聞こえる。そういう面を明治時代の日本語はもっているんだと、治ちゃんは言いたいのだと思う。

そして、樋口一葉の頭の良さ、知性が全駆動された流麗な文章は、驚くことに意味が破綻することなく、強固な文脈で構成されている。『たけくらべ』という小説は、筆者にとって、江戸っ子気質の「意地の張り合い」が読みどころで、男女の恋愛感情のような機微はどうでもいい(但し、主人公の少女から女への心理的変化について、学者と小説家の間には処々の論争があり、その実相を深く知りたいと思います)。


ともあれ、「意地悪」の知性というものを一葉の文章をかりて明確化し、その知性を支えたものは何であったかを浮彫りにしたかった。そうですよね、橋本さん? (この世に居られないのだなあ)

それはどういうことかというと、この章の最後には、こう書かれている。

樋口一葉は、なぜ意地悪なのか? 言うまでもなく、二十歳までに二人のだめ男に失恋している。彼女のことを「失恋の小説しか書いていない」という人だっている。そういう彼女が、世の中に対して慈悲の眼差しなんか注いでいられるだろうか? 丁寧な口から意地悪しか出なくたって当たり前だ。人としての品位を保つため、丁寧さを持続させている。そのことを「偉い」というべきだろう。

これは次の章の「紳士は意地悪がお好き」の内容を示唆するものである。「丁寧な口から意地悪しか出なくたって当たり前だ。人としての品位を保つため、丁寧さを持続させている」のは、一葉の高潔な人格、モラルがあったからだ。その江戸から明治に引き継がれた、一葉の「倫理」は、たぶん男尊女卑を前提に成立していたかもしれない。そのことと、一葉の「意地悪」は通底していたんだと筆者は考える。
 
橋本治いわく、意地悪と知性は両立するが、知性とモラルは、相性が悪く分離しやすい。昔の偉い人は、知性とモラルを同居させていたから「立派」だった。(樋口一葉の次の章では、都知事を辞職せざるを得なかった舛添要一をダシにして、夏目漱石の「意地悪」を料理している)

端的に言えば、エリートと呼ばれる頭のいい人間、特に政治家は知性があると認知されているが、モラルに欠けた人がかなり多い。そう「立派な政治家はいない」。
具体的には、いくらでも例証できるが、本稿のテーマからそれるので、この辺で筆を置くことにする。

(注):以前にも書き記したが、「治ちゃん」は敬意と親愛の情を込めた私なりの表記です。




{番外}日本語の旋律、言葉の美しさがわかるストレートな見本がある。アフリカのどこかの兄弟がスピッツの歌をうたっている。歌っている女の子(ビコ)は、ほとんど日本語を知らないだろう。耳から入った音曲そのままを耳コぺしているはず。それがわかる。かれらは歌の意味が分からなくても、言葉の美しさ、旋律、テンポのいい日本語がかっこいいと思った。偶然見つけたのだけれど、もしかしたら世界的に有名?
 

 



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