小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ユダヤ教徒への途

2006年12月07日 | エッセイ・コラム

ユダヤ教の特長は、まず選民思想にあると思う。
もちろん安息日、割礼、食餌の戒律における三大原則はあるが、それは信者としての前提である。
教義を信じるかということよりも、これらの生活習慣を続けられることができるか。
ユダヤはそこを峻別する。神に選ばれた民の前のみに、YHWHは存在する。

もし私がユダヤ教徒になろうと思ったら、それは簡単になれるものだろうか。
洗礼を受ければ簡単になれるという人がいる。それは誤解であり、キリスト教と混同している。
(紀元前のユダヤ教のある宗派では洗礼の儀式はあったらしい。それはつまり、イエスが所属していた宗派だが・・。それが史実であるかは分からない。メシアを名乗り、安息日を無視して救済活動したことで破門されたが、イエスがユダヤ教徒であったことは事実である。同じくムハンマドも・・)

ともあれ日本にある日本ユダヤ教団のホームページを検索する。
不思議なホームページである。トップページしかない。そこにはこう書かれてある。

「我々の教団は1953年に設立されました。私たちの教団はユダヤ人であれば世界中どこの国からいらしても、又どんな考えを持っていても、いつでも、どなたでも 歓迎いたします。東京で唯一のシナゴーグがある教団は会員のために宗教的、教育的な場、又、社交的な集まりも提供しています。教団では日本を訪問したユダヤ人のお客様に対して、シャバットと呼ばれる安息日の礼拝の場所を提供し、ユダヤ教の教義に定められたコーシャの食事をユダヤ人の多くの友人達と暖かい家族的な雰囲気で取る事ができます」

この文章は日本語ではあるが、日本人に向けて書かれてはいない。ユダヤ人向けである。「ユダヤ人であれば世界中どこの国からいらしても、又どんな考えを持っていても、いつでも、どなたでも 歓迎いたします」とやんわり書かれているが、ユダヤ人以外は来訪を拒否している文脈である。私としては逆にユダヤ教の選民思想の洗礼を受けた心地である。さらに不思議なことに公式ホームページなのに所在や連絡先がいっさい記載されていない。テロ対策であろうか。ただ「トメル・ペール(総支配人)」氏あてにEメールが出せるように配慮されている。この総支配人という肩書きは何を意味するのだろうか。ホテルではあるまいし、ヘブライ語あるいはイデッシュ語ではもっと別の深い意味があるのだろうか。教団とはいってもキリスト教のYMCAのような施設とも考えられるが。
(地図帳をみたら教団は広尾にあり、住所も電話番号も記載さていた)

次は駐日イスラエル大使館。場所は私もよく知っている。
麹町(正確には番町だと思う)の元日本テレビ局社のすぐ近くにある。
日本の警官が警備する大使館は数少ない。アメリカ、ロシア、中国、韓国それぞれの大使館では日本の警官が365日常駐している。日本の国家予算を使って警備する大使館は格別の待遇といえるだろう。
イスラエル大使館は深夜は確認できないが、ほぼ常駐で日本の警官が警備にあたっているようだ。
これもテロ対策と言えなくもない。

私はまず大使館に電話することにした。
「ユダヤ教に入信する場合、どういうプロセスを経るのでしょうか」
電話の相手は若い男性である。
「ユダヤに関する様々な本があるので、それをお読みなったらいかかですか」
読んだ書名を言う。「これらの本にはどうやってユダヤ教の信徒になれるのか具体的に書かれていないので、それでそちらに尋ねれば分かると思ったのです」と告げる。
男はちょっとムッとしたような感じで「しばらくお待ちください」とのこと。
 女性に代わる。私がこれまで読んだユダヤ関連の書籍名を言う。
「ユダヤ教にはいろいろな宗派がありますが」と突っ込まれる。
逡巡し「正統派です」と応える。向こうもたじろぐ。
「それならば、まず試験があります」
「その試験とは、たとえばロシアから移民してきた異教徒のユダヤ人が、ユダヤ教に改宗する場合にラビの元で一日二時間トーラーを七ヶ月間勉強して試験すると聞きましたが、その程度のレベルのものですか」
「そうですね」
私にはそれで充分だった。
もし私が試験に合格しても、正統派には入れないだろう。
ユダヤ人ではないからだ。

私はユダヤ教に入信しようとは露にも思わない。しかし、そう思う人がいた場合、ユダヤ教の敷居の高さは峻厳であるし、別の言い方をすれば「××の壁」である。
この偏執狂的原則主義に反発するかのようにキリスト教やイスラームが生み出されたとも言える。
一方でユダヤ教あるいはユダヤ思想は、跳び箱のロイター板のようにも思える。
知性とかコミュニケーション・パラダイムに大いなる飛躍をあたえる踏み台のようだ。

ウェーバー「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」によれば、このプロテスタントという新興宗教が生れた背景は多くの人が「聖書」(ルッター訳の世俗的ドイツ語)を読み、つまり「旧約聖書」の世界であるユダヤ教を体得することによってそれまで信じてきたカトリックキリスト教を見直しを迫られた。それが何かここではふれない。
それまで「聖書」はラテン語で書かれ、それを読むには素養が必要であり、聖書そのものは神父のオーラルによってのみ語られていたからだ。
ウェーバーは、多くの人が「生の聖書」にふれ、どういうエートスを醸成させたか。ということを社会学的に分析した。まだ何かが不足している。
彼はその後「古代ユダヤ教」の研究に没頭した。ユダヤ教がプロテスタントという生み出したという手がかりを掴んだと思われる。
私は「古代ユダヤ教」を未読だが傑作であることは間違いないだろう。
当然ゾンバルトの「ユダヤ人と経済生活」も必読だ。「恋愛と贅沢と資本主義」については、折にふれてみたい。

私はユダヤ人とユダヤ教をワンセットで考えたくない。
唐突だがユダヤ人への迫害、差別、ディアスポラ、そしてホロコーストは、彼らの知性(あらゆる意味での)への羨望の裏返しである。
長くなりそうなのでこの辺で。


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