小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

無明と虚仮

2014年05月28日 | エッセイ・コラム

 つい近頃復刊された岡潔の文庫本「春風夏雨」にこんな文章があった。
ピカソの展覧会に行って、多くの馬と女性の絵を見て、ピカソはひっきょう「無明(むみょう)」を描いているというのである。
 それを受けての文章を引用する。

「無明というのは仏教の言葉で、私の信奉している山崎弁栄上人の解釈によると、生きようとする盲目的意志のことである。
盲目であるにせよ、ともかく生きようとする意志のことなのだから、それほど恐ろしいものではないだろうし、また、少なくとも六道のうちの最高の序列にある、人・天の二道における無明は程度が知れると考えていた。
しかし、ピカソの絵を見て、生きんとする盲目的意志がどんなに恐ろしいものかがよくわかった。」

 岡はしかし、ピカソは無明を知らないし、美だと思って描いていただろうという。
「生命力は無明から来ているのではなく、むしろ無明によって邪魔されている」

「無明をしりぞけながら進むのが生きる」ことだとも・・。

 一般的には「無明」とは仏教用語で、「迷い」のこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。闇に光をあてれば、暗闇が消失するように、智慧の光によって「迷い」はなくなる。
 岡潔は、傍から見て、他人の「無明」は見えることがあるという。が、自分自身の「無明」は見ることができないとする。

 どんな「慧能」をもってしても見ることはできない。それをどうやって克服するかは、「春風夏雨」に拠っていただきたい。

 さて、最近、パソコン遠隔操作事件が「やはりそうだったか」という終焉をむかえた。(この書き方に狡猾さを指摘していただいても結構です)
 わたしはビデオニュースでずっと注視していたのであるが、佐藤弁護士が片山祐輔の無罪をどれほど力説しようとも、神保哲夫がそれを補強する説を述べても、わたしにとっての半信半疑を払拭してくれる決定的な説明はなかった。

 私は片山祐輔に「無明」を見出したと言いたいのではない。それほどの「慧能」を持ち合わせてはいない。

 最初、彼の容貌をはじめて見たとき、平安時代だったらさぞかし美男だっただろうとおもった。同時に、子供がそのまま大きくなった容貌だともおもった。

 そして、「無明」とおなじ仏教用語をつかえば、「虚仮(こけ)に生きている」青年という印象を最初から抱いていた。
 虚仮とは「真実に反し、いつわりであること」あるいは「からっぽで実体が無いこと」を言うのだが、直截にいえばPCゲームのような仮想空間に浸っているといっても良い。
たぶん片山祐輔は、現実の大人社会を虚仮にしたい、という意味での思春期モラトリアムがいまだに続いている、それが私の見立てだ。

 E.Hエリクソンによれば、ひとは青年期に暫定的なアイデンティティを形成する。この時期をいわゆる「モラトリアム」といい、社会心理学によれば、先進国でも未開社会においても、子供から大人に移行するための「社会的猶予期間」は文化的あるいは慣習的に制度化されている。この成人への準備期間において、他者との相互性を意識しつつ、アイデンティティを統合してゆく。このプロセスは本人の自覚はもとより、周囲の見守り、バックアップは極めて重要だろう。 以前に「超自我の行方」を書いたが、高校生時代は人格形成の方向がさだまる、たいせつな時期だ。
わたくし的にいえば「性欲のめざめ」と「受験による桎梏」がかさなり、思春期は多くの人にとって、人生最初の難関ともいえるだろう。

 未開社会などはそれなりの通過儀礼があるし、一神教世界でも大人の世界に移行する儀式・制度はしっかりしている。それに比較すると、戦後の日本はかなりファジーだとおもう。(

(追記:未開社会はおかしいか? 非文明社会ぐらいの意味です。現代でいえば、ヤノマミとかピダハンの人たちに代表される社会集団を想定しています。でも、この「非文明」という言い方もおかしく、例えばR・ストロースやP・クラストルの調査・研究に依拠すれば、彼らが考える「人間が成熟すること、子供と大人の境界とはなにか」を設定するメカニズムあるいは制度みたいなものについては、私たちがまだまだ学ぶことは計り知れないものがあるのではないでしょうか。また、一神教でも宗派・地域性で同様の差異があります。)
 

 個人差はあるだろうが、軋轢やトラブルなどなにごともなく「大人」になることはない。ただ日本では表面的には穏やかで、突出した問題ケースはきわめてレアである、といっていいかもしれない。何故かはわからない・・。

 この受験という「現実環境」と男の子にとっての「性欲=内的環境」との両立はたいへんに難しい。誰かに相談できるものでもなく、自分なりになんとか解決の道筋を見つけなくてはならない。これが実はしんどい。
 家庭環境、価値観のちかい友人がいるとか、面倒見の良い肉親がそれとなく導いてくれることもあるらしいが、それは理想に近いことではないだろうか。

 片山祐輔の場合、彼がセクシャルな領域で煩悶したことはないだろう(という気がする)。そのぶん「虚仮」の世界にうつつを抜かしていたのではないだろうか。「自分はサイコパス」と告白したらしいが、二重人格即サイコパスとはいえない。また、彼の家庭環境や体験などに思いめぐらせてもサイコパスとはいえまい。

 彼は自殺をも決意したと佐藤弁護士に言ったらしいが、ある種詭弁にちかいのかもしれない。

それよりも釈放されてからの片山祐輔をずーと監視していた警察の不気味さに、わたしは気持ち悪さを感じてしようがない。(追記:文章の体をなしていない。この不気味さというのは、合理的な倫理観みたいなものです。表現しづらいのですが、手段を選ばない法制度の完遂というのは、それ自体イリーガルではないか? 法学の素人だからご容赦を)

 警察はいわゆる「アナログ」の確たる証拠がないなかで、職業的な「カン」は冴えていたのである。
 河川敷にスマホを埋める姿さえビデオに撮っていたのである。
そうした科学的な集団連携・ストーカーのような捜査をなぜ中止して、片山祐輔を八王子や高尾山で泳がせていたのだろうか。
 佐藤弁護士が自殺を思いとどまらせてくれた、ということで検察(?)は感謝の意を表したらしいが、なんか社交辞令のようだし、見えないところで舌をだしてはいないか。
 片山は自殺しない、という確信があったのか・・。

 出頭後の佐藤弁護士の会見を拝見したが、弁護士としての職責をはたす決意はすばらしかった。
 ただ、自分たちはどうやって騙されたのか、という事実を掘り下げていただきたい。
 でないと、片山祐輔のモンスター性だけが脚光をあびるだろうだからだ。
 彼は「虚仮」にいきる、ただの「無明」の男なのだ。


最新の画像もっと見る