小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

光ありき、それとも眼差し

2013年07月21日 | 芸術(映画・写真等含)

わたしのアートシーン ③ 岡田邦明と光

馬場良平を語ったならば、岡田邦明にふれねばなるまい。
ふたりは肝胆相照らす仲。学生時代からの友人であるが、写真にのぞむ方法と作品はだいぶん趣が異なる。馬場の撮る対象は鉄であり、じぶんの作品である。対して岡田は、あるがままの事物、風景を撮る。その意味では正統派であろう。
まず傍観し、凝視し、イメージを構築し、シャッターを押す。
その一連の間は2,3秒。ここまで書いて、私の筆がとまる。

岡田にとって、撮る対象とは何だろうか。何を選んでいるのだろうか。

前に一度ロケハンということで、私がすむ町を岡田と一緒に散策したことがある。
ゆっくり話しながら散歩するペースで・・。時折足を止め、何気なくシャッターを押す。そのとき私は、彼が何を対象にして写しているかが窺えない。
ときに可愛い猫を見つけると、口音を鳴らしてレンズに顔を向けさせる。それも10秒もかからずに写真におさめる。
何かに釘づけになるとか、ある時が来るまで「待つ」という様子はない。こんなにも軽やかに撮影するのかと、わたしは感心しきりであった。後に、彼から何枚かの写真を送っていただいた。いずれも見慣れたものだが、その印象がかなり違って見える。

その一枚がこれ。毎日というぐらい通る煎餅屋の店先の写真である。

Photo_2
日頃見ている店先の風情とは違う。なめらかな曲線のガラス壺の光沢と、時を経た木材のケースの燻んだような質感が、下町風情をあたかも西洋の何かしらに変えて、上品でモダンな感じを醸し出している。

わたしは彼の技に驚くと同時に、ある種の合点を見出した。彼が何を撮るのか、何を撮りたいのか。その符号、メタファーがここに隠されている。

若き詩人、細谷勇作はこう書いた。

岡田邦明は不透明な遮蔽物の彼方から漏れ出した光にノスタルジアを見ている。   それはどちらかといえば未来に近い懐古だ。  時の流れに抗う想像力のはたらきだ。                                               「浸透するひかり」    岡田邦明著の序文より 

さて、彼自身の公式ホームページに以下のプロフィール記事がある。
1992年より2001年まで美術史家柳宗玄氏に同行し
中世ヨーロッパ、ロマネスク様式の聖堂等の撮影

近年は都市の近代建築等、光と影の作品制作に没頭

柳宗玄は言わずと知れた柳宋悦の子息であり、わが国の「ロマネスク」美術史家の重鎮である。大部の著作もあり、まだご存命だとおもう。
岡田はたぶん柳宗玄の薫陶をうけたであろうし、ロマネスク芸術の神髄を彼自身もまた血肉化したはずだ。
事実、かれは3年程まえにロマネスクをモチーフにした個展をスポンサー抜きで行った。

Photo

彼はクリスチャンではない、ヴォワイヤン(見者)である。

ただ、その眼差しはロマネスク芸術を究め、いわば聖像(イコン)、建築物・彫刻などそれらの変容やメタファーを見透かす、稀なる写真家なのだ。

今日、美術館やギャラリーが展示している様々なイメージは、J・ランシエールによれば三つのカテゴリーに大別されるという。
「剥き出しのイメージ、直示的なイメージ、変成的なイメージ」。
単純にかつ私流に、写真芸術に限定していえば、剥き出しのイメージは報道写真、戦争写真に代表される。直示的なイメージとは、人物、ヌード、風景、その他の事物を対象としたもの。
そして変成的なイメージとは、私見だが「ここにはない世界」を写しだすものだ。直示でも?き出しでもなく、また時空を超えるのでもない。現前するイメージと、彼方にある想像が循環するといっていいだろうか。だから、彼の作品のモチーフの多くがロマネスク、キリスト教美術を彷彿とさせる、変成されたイコンなのだ。

たとえば、窓は聖像(イコン)そのもの。かつて聖像は偶像だと攻撃された時代、聖像は神ではなく神を見る「窓」という理論が生まれた。その像を拝するのではない、その像(窓)の彼方に神がいるという理屈である。

Photo_3 

彼の作品のほとんどが光そのものをテーマにしたもので、窓をはじめ扉、階段、果物、ときに聖像彫刻や十字架などキリスト教芸術に包含されるメタファーが多い。むろん彼はその限界を知っているし、そうしたイメージを超える作品もある。
興味ある方は、「光画手帖」を探訪されてみたらいかが。

http://k3graphy.jimdo.com/

彼はいま本業の合間をぬって、横浜のカルチャースクールで写真教室を主宰している。生徒さんの作品も見るとなかなかのクオリティである。優れた師あれば、弟子もまた然りである。

彼はまたデジカメに持ち替えても、銀塩写真と遜色のない出来を追求する。感光された画像すなわち「光画」を、絵画のようなアウラ、「唯一のもの、ここだけのもの」として表現しようとする。プリントするインク、紙にも想像以上のこだわりをもつ。

我が家に犀のモノクロ写真が飾ってある。彼が学生時代に多摩動物園で撮ったものだ。一枚の絵画のように仕立てていただいた。家宝である。

※追記 窓をあつかった多くの作品の中からこれを選んだ理由は、窓ガラスの中央にキリストらしき男の眼が映り込んで見えるからです。片目ですが、右目、左目にもどちらにも見えるようになります。もちろん錯覚なんですが、濃い眉毛のしたに動じない黒い瞳が見つめています。 

 

 


最新の画像もっと見る