小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

『大清帝国展』に行く

2021年03月02日 | エッセイ・コラム

駒込あたりまで散歩し、東洋文庫に足を伸ばしたら『大清帝国展完全版』をやっていた。小生、清時代のことは詳しくはしらず、高校世界史の域を出ないどころか、大半を忘れている。「完全版」と銘打つかぎり、これまでとは違う何かがありそうだ。

素人である小生が、まず清の建国で覚えているのは、漢民族ではない北方系の、男が辮髪を習慣とする民族が、明のガバナンスの空白を衝き、北京等華北を占拠したこと。明王朝の皇帝一族が台湾に逃れ、そこには中国人と日本のハーフである鄭成功が彼らを助けた話は有名だ。国姓爺合戦はそのことを物語ったものであったと覚えている。

書籍や関連資料などの展示もあって興味をそそられたのだが、照明が暗く読みにくい。撮影は展示物すべてOKであるが、フラッシュは不可なので、スマホカメラではとてもお見せできるクオリティはない。

その後、大清帝国として事実上、中国全土統一したのは康煕帝(1661~1722)で聖祖と言われた。次の雍正帝は在位10年あまりで、高宗といわれた乾隆帝(1735~1795)の時代が最も中国の支配を盤石なものにしたとされる。キリスト教の布教を禁止したり、辺境の回教徒への弾圧も行われた。

清もいわゆる中華思想を受け継ぎ、諸外国とは朝貢貿易しか認めなかった。そのころの生産力(GNP)は世界トップだったと思われる。考えてみれば、江戸時代とほぼ重なっていて、そのときの中国はどんなだったか自分なりに確認してみようと覗いたのだが・・。

門外漢だから偉そうなことを言うつもりはない。ただ、展示の流れがぶつ切りというか、大国としてのビッグストーリーがない気がした(仮説に基づいた歴史博覧は許されないのは分かるとしても・・)。「大清帝国」を包括するようなコンセプトはつくれないものか。(この時代には司馬遷のような人はいなかった?)(※追記)

歴史は後世の知者がつくるものというセオリーがあり、「清」という大国の歴史を、世界史あるいは歴史哲学のなかできちんと位置付けていない気がする。いや、フランスでは中国歴史学者が多くいるから、体系的な研究はされているはずだが・・。

さて、展示資料のコメントには、茶化したとは言いたくないが、軽妙な言葉遊びを散見し、ちょいと驚く。本国の方がこれらを見たとき、どう受け止めるだろうかと気になった。

清は満州国で建国し、それまでの漢民族ではなくツングース系女真族主体にした国だ。その辺の支配体制というかヘゲモニーの中心は何だったのか、分かるようでわからない。権力なのか、制度なのか、ポピュリズムなのか、ほんとうに分からない。腑に落ちる考え方があるかどうかも知らない。

そのなかで、科挙制度はずっと継続していて、いわゆる官僚や文人は漢民族のエリートが牛耳っていたという歴史。中国の知識人からアナール派的或いはフーコー的な系譜学をやるひとが現れないだろうか。(下線部は追記:3/3)

ともかく、歴史学者官吏登用試験である科挙の最終試験「殿試」の答案も展示されていたのは良かった。まあ、漢民族との両輪体制でうまくいった時期もあるが、展示資料を観たかぎりでは宦官はじめ高級官僚の腐敗が大きかった感じだ。

以上、思いついたこと、後で感じたことを書きならべた印象記になってしまった。妄言多謝としたい。

 

▲西太后の龍袍(ロンパオ)。朝服の上から羽織る朝掛。黄色のドラゴンは、皇帝と皇妃にしか使われない。満州国の溥儀の絵画があった。

▲纏足用の靴。レプリカであろう、新品そのもの。昔、中国に行ったとき、若い女性に付き添われた纏足の方を見た。抱きかかえられ、歩行は困難を極めていた。幼少の頃から骨さえも成長させないように矯正する。要するに足フェチだと『纏足物語』にあった。

▲イギリスは茶、絹、陶磁器を輸入したが、輸出するものがなかった。で、アヘンを売るように画策。またたく間に庶民に浸透。清政府が取締り、焼却するとイギリスは戦争を仕掛ける。時は1840年、徳川幕府、諸藩を震撼させた。上記は、象牙製など高級なアヘン吸引用のパイプ。

この空間は変わらずに、いつもインパクトがある。

(※追記)その後、ヘーゲルなどの歴史哲学を漁ったが、乾隆帝は学問的知識に明るく、『四庫全書』という中国最大の叢書を刊行したとあった。誤植があれば厳しく罰せられる程の完成度を求めたそうである。ただし、ヘーゲルによれば、中国は学問を尊重し、保護育成されているかにみえるが、「内面性という自由な土台と理論的探求へとむかう本来の学問的関心が、中国にはありません」と手厳しい。ただ、文字(漢字)の性質がそれを阻害したのか、単に真の学問的関心がなかったのか、ヘーゲル自身は断定していない。

東洋文庫には、モリソン書庫というのがあり、常時、四庫全書の存目をみることができるらしい。ただし、存目(そんもく)とは、目録には載せられたものの、本文を収録しなかった書物のことで、その存目の複製を所蔵しているとのこと。東洋文庫のHPには、「明朝の永楽帝が編纂した百科事典『永楽大典』が1万一千冊で世界最大でしたが、四庫全書はそれを上回る3万6千冊が1セットとなっています」と解説していた。

ちなみに「四庫」とは、「経」(儒教の経典など)、「史」(歴史・政治・経済・地理など)、「子」(思想・宗教・天文・医術・薬学・技術書・百科事典など)、「集」(文学・文芸批評)の4つに分類した書物のこと。科挙の登用試験にはこれらから出題されたのであろう。中国はじめ日本、韓国では、知識集積を競う記憶型学問のみを偏重したきらいがある。個性やオリジナリティを尊重する学問が奨励されていたら、西洋の知に対抗できる何かが生まれていたのかもしれない。少なくとも、イギリスの植民地主義にもとづくアヘンの売込みを阻止できたであろう。まあ、歴史には「でもしか」は禁句ですかな。


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