鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

46 緑陰の思索

2018-07-19 18:47:05 | 日記
---我が眼から色を奪ひて炎帝の 光と影が古都を征せり---
皆は買物や通勤通学の途中に、1分でも足を止めて世界を眺める事はあるだろうか?
隠者のようにそこで夢幻界転移までしなくとも、木陰で足を止めしばしこの世界の諸相に想いを馳せてみよう。
例え数秒でも世界の認識はできるのに、その時間さえ惜しんで何も感じようとしない類の人々を古来から「縁なき衆生」と呼ぶ。

少年時代の野球の試合中に見上げた空の色とか、入学試験の窓を打つ雨音だったり、仕事に遅刻しそうで走った並木の落葉の記憶でもいい。
それが世界の認識への入口だ。
時間的余裕があるから感じるのでは無い。
感じ取れる人は子供だろうが極限状況だろうが常に世界を感じ取っているのだ。
そんな自分を取巻く世界を端的に詠んでいるのが次の句。

(たましひのまはりの山の蒼さかな 三橋敏夫 探神院蔵)
この短冊はいつも探神院の玄関に有難く飾ってある。
「蒼」の清澄さ、「山」の深さ、「たましひ」の震え。
このレベルの句を詠むのは難しくとも、同じ心境に至る事は可能だ。

例えばSDカードにデータは確かに存在するのに、PCが認識してくれない事がある。
同じ様に世界は明らかに生動しているのに、それを認識しない人がいる。
または脳で認識はしても、心に何も感じない人もいる。
蛇足ながら「天上天下唯我独尊」とは「その人の認識次第で世界は存在する」という事であって、言うまでもなく「自分勝手」の意では無い。
世界を認識できない人にとって、世界は存在しないに等しいのだ。

古臭い哲学めいてきたのでこの辺で止めておこう。
暑き日の買物帰りの木陰で数分、隠者はこんな思索に耽っていた。


©️甲士三郎