オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

かれこれ半世紀、山に登ってるな

2018-10-29 11:50:25 | 登山と遠泳

 

 だいたい週末は山に登ってるから、月曜日の朝はゆっくり動き出す。

 まず天気図を確認して、ザックの中身の足りなくなったモノを確認して、登山靴を日陰干しする・・・イロイロと忙しい。

 今週末に登る山の目星をつけて、交通状況や現場の情報、あとは天気図を週末まで睨んで置く。

 ・・・お前は仕事してないのか?  よく言われるが、今朝も売買の買付が入って、すでに契約済みの売買の決済の打ち合わせが2件、店舗の賃貸の契約予定が入っておるから、心配ご無用、むかしから皆さんの想像の範疇外で生きてる俺を心配する人たちは多いけんども、あんた人のこと心配する前に自分のことを心配しなさい、逆に笑って俺に言われてるのがオチだろう。

 若い頃は仕事の翌日、すでに海外にいる彼女の膝枕で笑ってたり、神出鬼没で生きて居る。

 でも、正真正銘の銀座の1階で現役の、周旋屋だ。

 

 明け方4時過ぎに2時間の仮眠から醒め、上信越道を目指した。

 いつも天気図はだいたい頭に入っておる。

 いかがわしいテレビや新聞の天気予報ではなくって、半世紀、俺が描いてる天気図だ。

 5時台なのにすでに関越は多くの車が数珠つなぎになっており、またまた失敗したかと想ったが、なんとか早朝の渋滞には嵌らなかった。

 この頃は皆さんもよくお出掛けになっておるようで、週末の早朝5時に出発ではどの方面も渋滞に嵌ることが多くなってるから、日本人としては良いことなんだろうが、ずっと遊び呆けてる者には、ちょっと迷惑でもある。

 みなが俺みたいに毎週往復5~600キロ走るようになれば、これは出発を深夜の2~3時台にしなきゃ~ならん。

 余談だけんども、俺の山用に乗ってるアルファードは、1年くらい前に新車から10万キロを超えたあたりから、東北道上りは佐野SAに入れと指示が出て、関越道上りは上里SAに入れと指示が出て、中央道上りは石川に入れと指示が出て、東名上りは海老名に入れと勝手に指示を出すようになってる、トヨタのメカニックにも理解できないそうだ。

 上里SAで早朝にたまに喰う腰のあるうどんを喰って、これで山を下りるまでは飯はいらんか? という感じに腹が重くなったが、オニギリやらの非常食は喰わなくても必ずザックには入れてあり、飲料やガスバーナーやコッヘルやらと一緒にいつも担いではいる。

 一眼レフのカメラも入れて、総重量はいつも20キロは軽く超えているし、古女房らと一緒だと・・・あんたが好き勝手に生きてみなに迷惑かけ続けて、それで背負ってる荷物と一緒に、わたしに背負わせた重荷も一緒に背負いなさいとなり、重いモノは俺のザックに放り込まれる。

 人生と登山がいつもおんなじに想えてるのは、俺くらいか・・・。

 そうかそうか、それならまだ、もっと重くしてやろうか? そういう肝から湧いてくる想いも、ある。

 だからたまに空身で山に登ると、バランスが悪くなってフラフラしてしまう。

 長年の習慣とは怖いもんだ。

 昨日は近場の佐久平のどこからでも見える独立峰に登ったが、登り下りで出会った人は3人ほどで、いつもとおなじ閑散とした愉しい山行だった。

 360度の絶景、お天気も良い塩梅だった。

 沢筋から谷間を登り上げるコースで、ぶなやらの原生林を歩いて行った。

 こういうコースは木霊するから、ときどき大声出して賑やかに自分の声を愉しむ。

 そこに棲む獣たちには凄く迷惑なオヤジ。

 この時期は何処の山でも広葉樹が多い山ばかりになる。

 きのこの時期は終わって、最後の紅葉落葉で森は明るく輝いている。

 なるべく原生の森で、獣たちが豊かに生きて居る山が良い。

 しだいに急こう配になってくると落ち葉に埋もれた石や木の根がよく滑り、丁寧に歩いて登った。

 最後の谷の上部は、オーバーハングしてるようにそそり立って見えてた。

 腹のパウチにはガスがずっと溜まり、全工程で20回くらいはガス抜きが必要になったし、排便も必要なくらいに腸の調子は頗る良くなってた。

 先週は野暮用があって、午後から山梨の富士山の傍の山に登って居ったが、この1週間は嫌な息苦しい感じがずっとあった。

 ・・・そろそろ終わりかな? ここまで好き放題生きて来ると、常々呑気にそう想ったりもしておったが、昨日の感じだと、ぜんぜん大丈夫だろう。

 呼吸も良く、腸の具合も良かった、まだまだ生きてしまうのか・・・もういつでもエエんやけど・・・。

 あちこちの子供らも手をかけることもなくなって、俺は孤立無援・獅子奮迅だった前半生から離れ、やっと自分のためにゆっくり生きてるようなとこがある。

 すなわち、一匹のタチの悪い獣。

 日本の山や海を毎週堪能している。

 下りに膝が痛くなったくらいで、あとは余裕のある行程だった。

 登山口までの荒れた狭く厳しい未舗装路を運転するほうが、よほど疲れる、そんなことの方が多い。

 下山してからそのまんま、武州街道で十石峠を目指して、長野側の紅葉に燃える山々を堪能した。

 中央も上信越も渋滞が始まるだろうから、最初から帰路は奥秩父山塊を越えて上野村に降り、本庄経由で羽生まで下道を走り、東北道で戻って来る予定になって居った。

 ぶどう峠越えは次回かな。

 十石峠とは、長野と群馬の県境にあり、昔は長野側から米や味噌や醤油を担いで越え、群馬側からは紙や炭を担いで越えておった。

 毎日十石の米を馬をひいて越えていたから、そう呼ばれている。

 群馬県側に入ると、紅葉はイマイチだった。

 たいした渋滞も無く、悠々と寄り道しながら戻った。

 先々週に赤城と榛名に高齢の婆様を連れて行ってやった時も、その前の週に新潟の奥志賀の山を歩いた時もおなじ東北道の羽生からというコースで戻っている。

 関越や中央や東名は、週末には走りたくないのが本音だ。

 十石峠に登る道で、木地師の墓というのがあった。

 マタギや山伏とはまた違って、原生の森に暮らしながら木工品を作っていた技術者を木地師と言う。

 わが国の山々の歴史には必ず出て来る人々だ。

 炭焼きをやりながら木地師としても訓練を積んでいたり、山の住まいを転々としながら生きて居た人々だ。

 日本中の高い山々の7合目から上は自由にして良い、そんな時代もあった。

 寂しいとか、怖いとか、自然の中で独り居られない現代人には、理解できない存在だろう。

 まぎれもなく日本人のルーツでもあり、山岳信仰を繋いだ修験者や山伏と同類の、愉しい連中だったろう。

 日本の原生の深い森に足を踏み入れてさえ、ずっと古い日本人の痕があったりする。

 現代人はまったく見向きもしないが、こんなところに? 朽ちた祠や地蔵や彫りの入った苔むした石がころがっていたりする。

 みな、よく歩いておったんだよな~、日本人は、さ。

 

 そういや~、今週末は旧帝国大学の大学院に行くらしい息子が車を貸してくれと言っておった、同棲してる彼女と出掛けるのか・・・ということは俺は四駆のCRVで出掛けることになるが・・・25万キロ近く走ってる車だから大丈夫だろうか・・・。

 ま、まわりが喧しいから仕事をすっぺや。