当社の顧客のお父さんに、静岡でサクラエビの漁船の船長をやっている知り合いがいるが、漁に出ない時は居酒屋の店長をやっている。
今年は漁がダメになったけんども、来年の春もダメみたいだな。
自然相手の商売は、そういうこともよくあることだ。
農家でもおなじことだ。
商品の売買を仲買する連中や、その商品の価値を先物にして取引する連中は良いだの悪いだの抜かしてるだけだけんども、その現場で耕作したり漁に出るものらは、近所の山の頂にある小さな社に手を合わせていたり、する。
里山には、雨降らし神社とか、雨降らし寺とか言われているものが必ずや、ある。
日本中に、ある。
日本とは、そういう国だ。
おおむかしには、可愛い娘を人身御供にして、雨降らしの神に捧げておった場所もあるくらいだ。
飢饉で喰うモノがなくなって、人減らしの意味で人身御供にし、老いたものらは担いで奥山に捨ておいておった。
漁に出るものはその航海の安全を祈願するのとどうじに、海上で自分らの位置を常に確認するために、特徴のある形をした山を幾つか目印にしておって、陸にあがるとそこにお参りに行ってる。
奥多摩にある大岳山なんかは、東京湾で漁をする連中の目印でもあった。
なんでこんな山の中に漁師たちがやってきてた? そういう話もある。
農作業をする連中もそうで、親しんでいる近所の山々を眺めて暮らし、雨が降らない日が続くと、その頂にある社に手を合わせに行ってたりもする。
山登りというよりも、生きる為にそこにある奥社に願いをかけに行く。
豊漁だったり、豊作だったりすると、そのお礼にとまたまた山に登ってる。
中央で偉そうに民を管理・徴税する者らとは、その生活の価値観からして違っている。
仲買をする連中とも、違ってるし、加工して売る連中とも、まったく違ってる。
あえて言うなれば、その日々の豊かさが違う。
モノの豊かさではなく、心の豊かさだ。
豊かさとは、創造力とも言う。
例年、夏場と年末になると、赤城山のからっ風の吹く土地で代々大きなお百姓を続けてる爺様と婆様が、獲れた農作物を軽トラックに積んで当社まで運んで来てくれたりするけんども、それが美味いのは、値段の上下で売ってる品物ではないからだ。
国定忠治とは血縁だから、でもない。
・・・あんたそんな変な身体になっておっても、よくよく山に登って居るな~
・・・ほんとよ、こんなわけのわからん変な身体になっても、まだまだ山に登って海で泳いでるがな
心が籠ってる、人間の温もりが籠ってる、無農薬だとか言ってても、能書きばかりでそうでないものは不味いもんさ。
・・・あんたは山の社に毎年の春と秋に登って、ちゃんと手を合わせてるのか?
それを続けてる人たちが作るものは、なんでも美味い。
山でも海でも、そうだな。
そういえば国定忠治で想い出したが、山梨は大月にある猿橋の傍で、むかし国定忠治が逗留してたという土産物屋があるが、むかしの人はよく歩いておったんだな。
現代の人間は歩かない。
癌や難病やアレルギーの対処ばかりに振り回されて、自分で身体をコントロールすることを知らない。
病はまず歩くこと、そこから治して行く、それしかない、とも言える。
人の内臓はすぐに癒着する、それを柔軟にしておくには歩くこと、それが一番だ。
オストメイトの大腸内視鏡検査は、肛門からではなくって、パウチの袋を開けてその排便口から内視鏡を入れてやっている。
鎮静剤を打ってやってるから、ずいぶんと楽で痛みもナニも無くって、健常だった頃の肛門から入れるのと較べると違和感も少なく済む。
・・・山を歩くのならオストメイトになった方が楽やで!!
よく山馬鹿連中には言ってやってるが、腹が痛くなることもなくなったし、急な便意に振り回されることもなくなったし、出たって溜まるから別に慌てることもない。
なによりも、凍えるような雪山なんかで穴を掘って尻を出して野糞なんてする必要もなくなってる。
これは本音として言っている。
暇だから網を編んでおったが、完成した。
次は、なにをさ作るべな・・・。