人間の世界で頻繁に使っている 愛 という言葉、これを一言で言えば 優越感を得る そういうことだろう。
すぐに集団になり、群れて行動する日本人は、これが特に強いから、昔から愛の物語をたくさん作って来ている。
老いて金儲けよりも、仲間と楽しく過ごしたいとか、妻や子や孫と仲良く過ごしたいとか、平々凡々と安穏と暮らしたいとか、それもまた優越感に浸るという隠れた意味がある。
なんでも良いから、おなじ人間の群れの中で、自己主張をして、それで優越感を得たい、そんだけの話だ。
良い悪いの話ではなくて、愛の本質は、そんなことだ。
自分の居場所、立ち位置を確認し、作っておきたい。
母性本能や父性本能もまた、おなじ意識の中にある。
100歳の母の前では、80歳の息子は、相も変わらずに頼りないションベン垂れの子供だと認識されてる。
それが解って来るには、そんな愛がすべて猿芝居に見えて来なければ駄目だろうし、無意味な憎しみや怒りもまた、無くならないだろう。
愛という言葉自体には、たいした意味などなく、ただそれを使うことで、優越感という自己満足を得る。
・・・愛している・・・には、愛してくれているという前提があり、愛してくれてなければ・・・こんなにも愛しているのに・・・と、気づかない相手が可哀相な人だと優越感に浸る。
とことん自分に都合の良い解釈になってる。
俺が現代人の生態を猿だと呼んでいる理由は、そんなことすら自覚せずに、愛だの恋だのとほざいておるからだ。
すべては自分の努力次第、それでなんとでもなるという科学的な論考が抜け落ちているから言っている。
世界は自分の内にしかない、その世界は自分の認識の程度で大きさは変わる、死ねばすべてが無になるだけだ。
あの世もお化けも霊魂も、ナニも無い。
生きて居る時は、その自分の内なる世界を拡げるために、常に頑張って努力を惜しんではいけない、そういう当たり前の結論になる。
感情の話は、それらの準備が整ってからということだが、洗脳されて、育てられたまんまで、皆さんは感情をダダ漏れにして、それが自分だと勘違いしているだけだ。
この週末は、娘の結婚式に泊りで出掛け、いろんな地方の話を聞いて来たし、仙台から戻って姉の結婚式に一緒に参列した息子にも宮城の話は聞いたが、まだまだコロナ騒動で大メディア群に弄ばれていると痛感したもんだ。
花嫁の長い挨拶に、皆は感動して泣いておったが、どうも俺にはしっくりこなくって、手紙を読みながら泣き出した娘に・・・頑張れ!・・・と笑って言ってやるくらいで、泣こうにも涙が出て来なかった。
簡素にやれば良いと言って、そうすると聞いておったのに、式場の進行の入れ知恵なのか、母親の悪知恵なのか、ナニも聞かされてない俺だけ挨拶のカンペも無くって、もともと堅苦しい挨拶が嫌いなタイプで、皆でワイワイ雑談が大好きだから、ワザとそうしたものなのかは知らないが、古い旧習が大嫌いな父親には、その意図がピンと来なかった。
皆さんの期待には、そえない、変な父親、これは昔からだ。
別に今生の別れでもないし、これからが大変だろうにと、そういう心配があるくらいだった。
そうしてなにかで困ったら、どうせ俺んとこに来るんだろうと、そんな感慨だった。
現に今月中に、娘と母親は二人で2回も、ディズニーランドへ遊びに行く約束をしておるらしい。
こういう訳の解らない猿芝居が、俺には心動かない。
式が終わって、ぼ~っとトイレでションベンをしておったら、盛り上げ役をやっておった息子と一緒になり・・・ほんとに、小さい頃から、いま思うと自分では考えられないくらいにあちこちに連れて行ってもらって、それは感謝してるよ・・・と、チンチン振りながら言っておったから・・・別にお前たちの為だけに動き回って居った訳ではないよ、俺がそう生きたいからそうなっておっただけだ、俺の自己満足にお前らが振り回されておっただけで、それを今になって良いように解釈してもらえるのは、なんだか儲けた気分だな~・・・大笑いだった。
その式の新婦のお父様のリハーサル直前に、実家の売却を頼んでる不動産屋から連絡があり、指値があるが買付が入りそうだと言われ・・・事情を話して週明けまで待ってくれ!となった。
今朝は溜まったいろんな仕事やら雑用やらで、すでに眩暈がし始めて居る。
月の半ばには入籍をする息子もおり、老いた両親の引っ越しや、先祖の墓の話もある。
考えることは、とっとと奥山に逃げ出したい、本音だが、すべて俺がやらなければナニも動かない。
死ぬ前に、これだけはやっておかなければという話が、なんだか重なって動き出している。
これは俺の寿命がそろそろ近いということなんだろう。
ならばひとつひとつ丁寧に、やるしかない、仕方ないね~。
ただ、今週は週半ばにでも天気を見て、山に登ってくるわさ。