銀座一丁目の駐車場に、5台ほどウン千万の外車や高級車に社名を入れて並べて乗り替えて遊んでいた若い時代には、車道楽だと勘違いされていたこともあるが、陰でコソコソ蠢く猿やミーハー成金を黙らせるには効果は絶大だった。
そんなお遊びだって儲けが出過ぎた時の余興みたいなもんだった。
仕入れも在庫も持たない、人間社会での膨大な経験と豊富な知識と研ぎ澄ましている勘だけでやってる周旋屋は、経費がたいしてかからない。
明瞭納税者の鏡みたいなもんだ。
無い時は屁も出ない。
バイクや車は10代の頃からメンテナンスにも詳しいが、これは毎週末に人もいない山や海に出掛ける生き甲斐の為で、機械好きには違いないが自己満足には値しない。
そんな無駄な車もファンドバブル崩壊前には片付けていた。
善良なる庶民の皆様方の猿芝居ばかり笑って眺めていると、たまにその安っぽく中身の無い価値観に合わせてドカンと脅しを見せておけば、5年や10年は効果が持続する。
スニーカーにジーパン、いつでも山や海に出掛けられる安い格好で仕事をやっていると、たまに高額になった地上げの契約時には、ブランド正装・黒服・オシャレなスーツ姿で勢揃いしてる関係者の中でも、馬券売り場にタムロしている様なラフな遊び人姿、その契約を仕切ってやることもある。
猿の集う世の中社会を舐めて生きて来て66年にもなると、そんな感じ。
礼儀や作法なんざ糞喰らえで、常識や良識は夢の島。
抱えて生きているモノの違いだけが価値と考えるならば、ミミッチ〜ゼニカネだけで生きている愚かな猿の群れではそれで充分だぜ。
一匹の人間の中身・生き様で勝負しているとも言える。
ここは大笑いするところだ。
車のナビに求めるモノは、リアル・タイムの正確な情報だけで、道の選択は自分でする。
月への3往復目の復路をこの国で半世紀も走り回っている者にはそれだけの話で、あとは余計な情報・指図だと無視している。
だからリアルタイムな情報がエエ加減なモノは二度と使わない。
自分の経験と知識の方がナビの指図よりも正確で、間違いが無いからこそそうなってる。
AIロボット・コンピューターと言ういうモノは、それに情報などをプログラミングする人間を超えるものではなく、たかだか知れているということになる。
情報自体が無意味だったり、錯誤だったり、その創造の意味が間抜けだったり、人間の手間や労働に代わるモノでしかなく、労働を奪われた人間はどうする? の輪廻が始まる。
人間の作るモノはしょせんは人間が作っているからこそ、怖れるに足らないモノということになる訳で、大事なことは人間自身がキチンとやらなければ無意味なことさ。
オツムの中身が薄く軽い奴らには、言ってる意味も解らないのとおんなじさ。
義務教育すらまともに習ってない俺が、経済や経営などナニも勉強もせずに、なぜ銀座の街で30年以上も悠々と無借金・負債無しで自営を続けているのか? ナニにも拠らずに怖いモノなどナニも無い。
幼児教育や義務教育ですでに洗脳され尽くされてる日本人とは会話が成り立たない。
統一されてしまってる感情や感傷ゴッコにも興味は無い。
銀座でも、いろんな高齢者たちが元気に暮らしておられる。
俺自身も前期高齢者になっているが、まだまだ70代・80代と愉快に齢を重ねておられる方々は多くって、銀座の街で出会ったり、店にやってこられたり、賑やかで喧しいことこのうえない。
俺があちこちで高齢者の介護や日常を細かく動いて補助していることを皆さん知っておられるから・・・あんたに面倒見てもらいたいよ!・・・そんな笑い話で頷いてる。
あちこちで育て上げた子供たちの次は、あちこちで増えてしまった身内の高齢者たち、休む間もなく走り回っていると、仕事の依頼も増えて来る。
なかにはその子や孫の世代とのお付き合いも始まっていて、結婚相手の紹介や仕事の相談、育児や人生相談と周旋屋の仕事はキリが無いくらいにやって来る。
こういう周旋屋をやりたかった訳だから、幸せなことだ。
自由気儘に生きて来て、そのお返しを皆さんにしているつもりでいる。
帳尻は合ってるのかどうか、まだまだかけた迷惑の方が多いんだろうが、ゼロで生まれてゼロで死ねれば、本望だ。
借金・負債もビタ一文無し、貸し借りも無し、ガキの頃から想っていた生をこの歳になって続けて居れることが一番に愉しい。
ありがたいことだよ。
一期一会という言葉がある。
生者必滅・会者定離と言う言葉もある。
人は産まれる時は独り、死ぬときも独り、だからこそその一瞬をいつも後悔しないように燃え尽きるくらいに生きる。
俺は産まれてから幼稚園で3回、小学校で6回、転園・転校をしていたガキの時分に、それは自然に身についた想いだった。
その後の人生に大きな財産となっている。
つまりは下らない洗脳だけの幼児教育や義務教育を満足に受けていない。
皆とは違う自分が在り、皆とは違う道を自分で創造して生きて来た。
衆に隠れてベタベタ・ダラダラ・ウヤムヤでは生きないという芯が身についた。
いつ終わるやもしれない、いつサヨウナラになるやもしれない、いつ別れが来るかも知れない・・・そんな想いが幼い時分に身についた。
これは金を積んでも身につかない財産だと想っている。
親やまわりの人間は俺を苦労させた、苦労したと想っていたようだが、俺自身は武器にもなっているくらいに、有難いことだったと笑っている。
生きて立っている場所がすでに皆さんとは全然に違うくらいに、しっかりしている。
俺がしっかり自分で生きてなければ、ナニも無くなってしまう、そういう覚悟のことだ。
7月3日に新しい紙幣が何種類か出て来るが、一桁削って発行するとか、旧札の使える期間は短くするとか、とっとと交換するにしても日銀の本支店だけにするとか、交換が間に合わないなら消費や投資に使わなきゃ損だとか色々あるが、まだなんの話題にもなってはいない。
誰の肖像画が描かれるとか、そんな話くらいのものだが、デジタル・マネーに向かっていることは間違いの無いことで、庶民の持つゼニカネを自由に管理・調整できる時代が始まって来る。
では? そんな時代にどう生きるのか? 悠々と笑って生きて居るには、どう準備しておくのか?