波風というものは、地球上の空間では、それが良い波風か悪い波風かは問わず、いつもそれを起こした人間の元へと必ず戻ってくるものだ。
その戻ってきた波風をすべて正直に自分で受け入れるまで、人間の行為は判断などつかないのが本当だ。
波風を立て、とっとと逃げたつもりになっておっても、それは必ずや戻ってくる。
これを人間のみみっち~世界での、真理とも言う。
あまたの屑や塵は吹き飛んでしまって、そこには感謝しか、残ってない。
知識や屁理屈の世界の感情論ではなくって、あるがまんまの、惨めなのか崇高なのかは解らない、人間の丸裸の姿だけが在る。
世に言う科学や哲学や宗教にしても、人間がそれを考えることによって論理的なものは全て感情論にと変化する。
それは人間が、愛という、セックスという、感情の歪みや感情の昇華の末に、快楽を伴った行為の結果として誕生してきてる所以だろう。
ニーチェは、小難しい哲学の考察よりも、その詩集のほうにこそ生きて居るのとおんなじだ。
人間の世界のことは、キチンと話をしてゆけば、すべて笑い話になることばかりだが・・・現代の大人社会を眺め渡していると、どれもこれも笑い話どころか、諍いや争いや喧嘩ばかり、挙句に殻を厚くして閉じこもってしまってる大人ばかり、どうやって子供や若者たちに笑顔を見せるのか? 恥ずかしい、それだけだろう。
人類は、しょせん地球から土地を借りて住みついてる借地人に過ぎない。
その土地は常に変動し、伸び縮みし、地割れや陥没・隆起を繰り返し、いずれまた地球の内部へと落ち込んで、ドロドロに溶けて再生を待つだけの繰り返し。
不動産を稼業の商品にしている周旋屋の俺は、若い頃からずっとそんなことをほざいて生きて来た。
銀座で一坪400万だった土地を、300坪まとめることで一坪4000万まで上げたりして来てる周旋屋でも、いまでもそんなことをほざいてる。
人間の社会には、自分の立ち位置はないと想ってる。
アウトローでもなく、アウトサイドでもなく、アナーキーとも違う、なんだろう??
海外の女性ともいろいろと恋をしてた若い頃は、激しい流れに飛び込んで生きてることが愉しかった。
泳ぎが幼稚だったということでしかなくって、いろんな激しい流れにも慣れてしまうと、なんということもない、淡々と揺れている潮溜まりで、のんびり遊んでいることが最上だと想うようになった。
いまは起伏もなく、激しさもなく、別段なんということもない時間の流れのなかで、ひとり人知れず、気持ちだけを高ぶらせることが多くなってる。
プロローグもエピローグもないポエット。
始まりもなく終わりもないようにして、終わってゆくのが良い。
生まれて笑って、笑って終わりにする、それが俺の生なんだろうと想う。
他人の何倍もの生を生き、棲んだあちこちで女性を愛し子を作り育て、そうやって今いる場所はそんなとこ。
ナニもなかったと言えばそうかも知れないし、たいしたことも無かったと言えばそうかも知れないし、別段、宇宙や地球の時間軸で見てしまえば、アッと言う間の命なんだと想ってる。
そんなことを普通に想うようになっても、身体に障害を負ってもま~だ生きて居る。
未練や後悔などナニもないが、笑って生きていなければ、俺の意味は無いと想ってる。
さ、笑って今日も愉しくやっていこう。
別にさ、なにがあるということでもないのさ。