暑い夏を、今年も太平洋で泳ぎまくっている。
山用の身体がようやくに海用の身体に変わってきて、動きがよくなった。
関節や筋肉の動きが登山とは真逆になるようなことだから、慣れるまで2~3回は痛い目に遭うのが毎年の恒例だ。
相変わらずに波打ち際で水遊びばかりやっている日本人は、クラゲがいるだとか、ワカメには触るなだとか、離岸流には気をつけろだとか、幼稚なメディア奴隷のお祭り騒ぎをやっている。
知識だけは一丁前だが、その使い道は自己拘束だけで、阿呆でしかない。
山にも出掛けて、高山植物を愛でて、汗だくになった後に海へと直行して飛び込んで泳いで冷やすとか、まだまだ可能な体力がある。
この週末は雲も出ていたが、泳ぐ海は風がなく、波もたいしたことはなく、浜に上がっていると汗だくになるのでほとんど海の上で過ごして居た。
夏休みの大渋滞もあちこちで発生していたが、俺は行きも帰りもスイスイ、長年の経験がモノを言う。
源泉に浸かるのはお休みになっているが、帰りは漁師の店やらに立ち寄って、地産の魚で腹いっぱいにして戻った。
途中、連れ出したりして関わってる88歳の独り暮らしの婆様の燐家の親戚のオバサンが、5月末に緊急入院して手遅れの乳癌が発見され、早朝に亡くなったという知らせが入っておった。
独り暮らしの婆様の日常の買いモノやらを助けてもらっていた人だったから驚いた。
癌だとは聞いてなかったが、酷い状態だったようだ。
キチンと何度もワクチンを接種していた真面目な人だった・・・。
俺は癌研の有明でオストメイトになり、古女房もおなじ主治医で大腸癌ステージ4から根治まで辿り着いたが、彼女は築地の国立ガンセンターにいたらしいから、残念なことだ。
俺と古女房の主治医はすでに他の癌専門の公立病院に現場のトップで転院してしまっている。
コロナ渦では、腕の良い外科医もイロイロとやり難くなって、皆さんご自分の仕事がやり易い職場へと転院しておられる。
すべてが金儲けになっている時代は、食い扶持作りでは汚れた金には関わらない、大人のプライドではある。
パリのオリンピックは地上波では見れないと高齢者たちが言っているから、それぞれのテレビにTVerを入れてやって、見方を教えてやってる。
開会式の時間帯は爆睡の只中だったが、あとで何気に見ていたら各国の選手やらがマチマチの船に乗って手を振っていたが・・・難民船がやってきたのか?・・・だった。
ゲイのマクロンらしく、訳のわからない胡散臭い安い仕掛けばかりだったが、そういえば世界支配者会議のダボス会議はどうなったんだろう? と笑って見て居った。
キリスト教の内部も、いよいよ壊れ始めていることがわかる。
パリオリンピックの開会式では、西洋の文化や宗教やすべての旧習が、破壊され始めていると見えた。
オリンピックは奴隷の社会を規則やルールで雁字搦めにして、そこで競わす競技だ。
言うことを聞かない者らは参加させず、残酷な大量殺戮で消してしまう。
一芸馬鹿の頂点を目指すものらは、優秀な奴隷の部屋頭にはちょうど良い。
それらを各国の政治や経済や司法や芸能・スポーツの責任者に据えておけば、あとは世界支配なんて朝飯前。
人気者のスターや英雄が言うことを聞く話なら、ファンや支持者は金魚の糞。
人類の世界なんて、昔からそんなことだ。
オリンピックは、洗脳教育を施した奴隷を養豚場の中に集めて、ルールと罰則で拘束・拘置して必死に競わせて、生かさず殺さずの酷い日常を強いている中で、勝った者には生涯安泰のご褒美を与えて皆を感動させる猿芝居の演出の場だ。
生涯安泰とは言っても、広告塔として利用するだけ利用される一芸馬鹿とし、奴隷部屋の部屋頭として安泰なだけ。
その発祥から金持ち支配者側が主催する奴隷のガス抜きの場だから、飴と鞭の飴の役割しかない。
世界支配と管理の一環で、奴隷労働者たちの慰安会なのが主な目的だ。
退屈な話題だが、皆さんは夢中になって一緒に大騒ぎをしているんだとさ。
旧統一教会の勢力はこの国の三権の中枢にも入り込んでおって、メディアなんぞは溜まり場のようになっているが、皆さんにはナニも見えてはいない。
参政党が出て来た時も想ったが、今回の石丸なんとかも同じで、旧統一教会だろう。
反ワクチンだとか、地球温暖化説反対だとか、反主流派・反体制派を取り込んで丸めこんで、いかにも戦っている風には見せてはいるがバックはナニも変わらない。
こういう安っぽい詐欺でも、浅はかにも乗っかって行く連中はいつも多い。
まさにオレオレ詐欺と構図はおなじで、メディア奴隷の典型的な動きではある。
俺はワクチンはうったことなどないが怪しいモノを体内に入れる気がしないというだけで反ワクチンのグループなんかではなく、地球温暖化の嘘を何十年も言っているが、これも山を歩いて標高の高い場所に獣たちは移動していないという現場の感想から言っているだけだから、メディアで争っている風な両者とも、俺にはナンの興味も湧かない痴話。
群れてナンかをしようということでは無いから、馬鹿馬鹿しくって相手にもしない。
少なくとも、メディアで争っている話は、オリンピックとおなじで猿芝居でしかない。
みなスポンサー・資本の出所はおなじ、お仲間うちの争いだ。
そうしてその両方から儲けさせてもらうのが、俺の周旋屋稼業だ。
楢山節考の姥捨てと、高齢者たちを施設に放り込む現代社会を並べ立てて、おなじことだと解説する学者や論評がある。
その思考が起きている時点で、すでに違う根拠の摩り替えがあるが、幼児教育から洗脳された共通の無常感は一律反応して、呆然と仕方が無いのだと納得させる流れになっている。
貧しい社会では若い者たちの限られた食い物を奪うだけの高齢者たちは、自ら進んで死を選ぶのが自然なことだと言う。
老いても健康な歯を持っていることは、すなわち卑しく反社会な恥ずかしいことだと思わせる習慣は貧しい飼育場では良識になる。
資本主義社会の論理の摩り替えがある。
高齢者たちにアチコチで関わって生きていると、思うように動かなくなる肉体に自ら苛立ち、終わりを感じた高齢者たちはワザと無茶をしたり、進んで飲み食いを制御して、衰えを一気に加速させている最終章に接することばかりになる。
自然に自分らしく自由に生きれなくなった高齢者は、飲み食いを断って生き仏を目指す。
これが本当だろう。
マニュアル通りに、言われるがまんま、貴方任せでロボットのように動いている連中はモノの本質などナニも考えない猿の衆だから、疑問すら抱かない。
日常にずっと会話をしながら色んな高齢者たちの終末に深く接していると痛感することは、貴方任せの金儲けな施設に放り込むよりも、手がかかっても傍にいてやり、自分のペースで生き仏になれるように見守ってやることが、すなわち介護の本質だろう。
見守ってくれる者がいなければ野垂れ死にでも良い訳だ。
それが哀れで惨めなものだと思わせる洗脳こそ、恥ずかしい。
無理に医療や薬を使い、老朽化して糞オモシロクもない不自由な身体で延命だけを図るのは、ただのキレイゴトでしかない。
逆に死ぬ権利をほざくならば、自ら飲み食いを断てば叶う話でもある。
ところが資本主義社会ではまったく違う解釈になる。
自発的ではないただ与えられた仕事の対価として、決められた収入しか手に入らないサラリーマンや公務員の日常はその全てを飼育管理されている。
そこにはナンの疑問や不信感も起こらないようにと国民義務教育は仕上がっている。
人間のルーズな我欲の弱点を見事に突いている。
資本主義社会では、収入の中で消費をするしかないという簡単な法則が個性よりも優先され、反感や違和感を持つ者には借金や負債を負わせることで拘束と口封じをする。
奴隷たちには希望と夢を見させてもっと単純労働に勤しむようにと、用意した競争に勝ち抜けば飼育場の中では富と名声が手に入ると教える。
実際に一芸馬鹿な広告塔のスターや英雄をメディアを使ってアチコチに作り上げ、飼育場の希望や夢だと信じこませる。
働いても働いても貧しくギリギリなのは最初からそうなるように仕組まれているからだ。
それを資本主義と言う。
若い者たちの未来の為には仕方がないのだと、親や爺婆を施設に放り込ませ貴方任せな放置を選ぶように誘導する。
そこでも死にたい高齢者たちは無理やり生かされる金儲けの餌になっている。
俺がいまでもアチコチで高齢者たちを施設には入れずに日常に見守ってやりながら老いに付き合ってやっているのは、自分自身で終わりに向かって整理をしてゆき、最期も自分で決めなさいという意味がある。
高齢者の本心といつも深く接していると、ボロボロガタガタになった肉体には苛立ちと諦めしかなくっておって、もはや成長や維持すら望めないと知れば、それを寿命と心得てゆくのが自然なことだと解る。
だから在宅医療の医者には無意味な延命措置は要らないと伝えてある。
そこには甘ったれた感傷や感情は微塵もない。
それが獣としての自然な姿だからだ。
笑って、ご苦労さんで良い。
俺自身は、すでに自分の終わり方を決めてある。