幼児は、モノに固執して、モノに自分を反映させようとし、幼児のまんまの大人社会では、モノやゼニカネに固執し、そのモノやゼニカネで自分を表現しようとするが、しょせんは、幼児のまんまだ。
豊かな自分があれば、なにもモノなど必要とせず、ゼニカネも生きて行けておれば余分には要らない。
ただ自由自在に笑って生きることを邪魔する者があれば、とことん戦う、そんだけのことよ。
常時喧嘩三昧、オスの生なんて、そんなもんさ。
そうして暴力だけの力づくの喧嘩など、知恵の前では子供騙し。
なにが獣の中で強者と呼ばれるのか?
金メダルや世界一の勲章ではないのは当然だが、メディアの神輿に乗ってるだけのタコでもない。
現実をキチンと、他人の何倍もの扶養家族を抱えて笑って生きる、誰にも止められない暴走にも等しい遊び。
それを楽しんでいるわい。
この1年、ほぼ毎週、日本のアチコチの山に登って来てるが、都会の日常は自粛にはほど遠く、通勤・通学などは混雑に渋滞のまんま、休日だけは気をつけて過ごしましょう、そんな感じだが、田舎の情報弱者にメディア奴隷の方々は、ヒステリックに神経過敏に生きておって、オモシロイ見世物でも見てるような不思議な感じだった。
これが素晴らしい日本の実態? 先進国、生活も楽になった幸せな国ニッポンの、本当の姿なんだろう。
胡散臭いことこの上ない。
PCR検査の何たるかも調べずに、テレビや新聞の解説を丸呑みし、恐怖政治に恐れ戦くオツム貧しい民、そんな昔のハリウッド映画にもあった光景が、あちこちで生々しく観察できたもんだ。
今度はワクチンか? ずいぶんとオモシロイ見世物になってる。
新聞・テレビが大本営発表になっておるから、韓国や中国が攻めてくる!! とやれば、皆さんは弱い高齢者や女子供を隠してまわり、挙句に集団自決までさせるんだろう。
敗戦から、な~んも変わらない日本人。
お金というものは、質札とおなじで、それ自体にはナンの意味も無いものだが、それを使ってナニかをするということで、いかにも価値があるように見えてしまってる。
貯めるものではなく、稼いでは使う、使うことによって他人が喜ぶことが起きれば意味があるという、そんだけのものだが、ではなぜ貴方は生きて、ナニが楽しくて毎日を過ごしているのかという立ち位置がはっきりしてない人間がそれを持ってしまうと、ただの自転車操業、輪廻の輪の中でモルモット運動、そんなとこだ。
死に金と生きた金の使い方、これはある。
自分だけの為に使う金は死に金だ。
自分を誇示するために使う金も死に金だ。
自分を表現するために消費する金も死に金だ。
貯えて抱えてるだけの通帳と変わらない。
そこに億を超える金額が印刷してあっても、ただのインキ臭い文字。
姥捨て山の話は、実際にあちこちであった話だが、毎週のように歩いている奥山では、いまだに大雨や台風で崩れた山肌から、人骨が出て来ることは多い。
乱暴されて、身ぐるみ剥がれて、谷底に放り投げられた遺骨が、バラバラになってる渓流もある。
独り暮らしの高齢者ばかりが入居している崩れそうなアパートを、あちこちで管理する仕事は誰もやりたがらない。
孤独死の死体に強烈な腐臭が漂い、蛆が湧き、いろんな虫や小動物に喰い荒らされ、惨めこの上ない。
そこにあるものは、ただのモノだ。
モノに固執し、モノになる。
沖縄の墓は海岸線に石積みの小屋のようなものを建て、そこにある。
死者を放置し、腐らせて、乾かして、雨風に晒して、キレイにする風習があった。
日本中にあった。
モノからの解脱、これは人類の繰り返してきた風習でもある。
それを手にすることが人類の幸せでもあるが、それは人間の社会でグチャグチャに揉まれて、誰よりも多くの関わり合いの中でも笑っていることで、可能になる。
宗教や哲学を語っておるうちは、幼児のままだ。
標高2000mからの絶景を見て生きる、地球を見渡して生きる。
言葉を超えるとは、そういうことなんだが、解んね~だろうな~。
さ、契約の準備をひとつこなして、田舎へと向かうべな。
腹のパウチの交換サイクルに合わせて、今日を逃すとメンドウが増えるから、とっとと行くべよ。