カタクリは、この時期には山のあちこちで見かける。
登山なんてものは、その行程の9割以上が眺望も無い、薄暗く陰気で苔むした森を歩くことが多い。
なにが楽しいのかと言われれば、別にそれ自体はなにも楽しくない・・・そうとしか答えられないわけで、それでも生きて居るということを確認するために歩いてるようなもんだ。
自分の足で、ヘロヘロになりながら、自分のリズムで、汗だくになって、地球のアクシデントで遊び、ただひたすらに景色を眺めて歩くのが好きなだけ。
いつも必ず新鮮なアクシデントと出会う。
・・・なんかオモシロイことないかな~・・・だから飽きずに歩いてる。
すくなくとも、もうナニをしても見ても不感症になってる退屈な人間の社会にはない、オモシロイことがある。
そうして他人よりも体力・精力が段違いに強すぎる身体があるからこそ、街中に長く居れば乱暴・狼藉を働きそうで、だから山や海で消耗させている・・・これは、まわりのガラの悪く古い周旋屋はみな激しく頷いて笑ってる。
だから周旋屋には昔から山馬鹿は多い。
持て余す体力と精力を、山で消耗させているという意味もある。
昔の修験者や山伏なんてのは、だいたいがそんな大悪が社会には居れなくなってやっておった。
銀座の街なんて、青山の町なんて、この歳まで生きて居るとナニも真新しい楽しいことはない。
飽きてしまってるが、そこにやってくる人間がいるから商売にして生きている。
反社会勢力だろうが、刑事・警察官だろうが、俺から見れば山にいる熊公と鹿の違いにしか見えてない。
高齢者のセックスや自慰、こういう話はいまだにメディアでは語られない。
悠々と説教たれてる高僧や尼さんや神父が、老いてひとりで自慰をしている話は醜い話なのか?
何故だろうか? 孫がいるお爺さんがオナニーをしてはいけないのか? 孫の前で毅然としているお婆さんが股座を濡らしてはいけないのか? 皺皺のそんな話は汚らしいのか? 俺はガキの頃からませたガキだったから、爺さんや婆さんだってセックスやオナニーをしていることを知っていた。
ところがあれから半世紀以上も経ってるのに、そんな話は書かれないし、語られないし、メディアでも緘口令が敷かれてるかのごとくに、報じられない。
俺は障害者となっても、相変わらず絶倫のまんまで、いまでは山も登れば、海でも遠泳するように戻った。
そうしてこの身体障害者のセックスや自慰、これもまたタブー視するかのごとく風潮があることが不思議でならないまんま、今日に至っている。
日常の会話で俺がいつもそんなことを平然と喋ってると、変な爺様、変な障害者、そういう反応が多い。
人間が生きるうえで、これはとても大事な話なんだが、みな口を閉ざして見ないフリをする。
だから余計に俺はみなに喋ってやってる。
爺や婆でもセックスしたくなるし、障害者だって性器を弄って愛し合いたい、これは健康的な普通のことだ、と。
昔から、世の中社会の50年先を生きてるような、そんな想いが強いから、別にナニも期待はしてないが、言うことは言っておかなければと、相変わらずあちこちで言い放ってやってる。
俺は健常な頃からあちこちに女を作って、みな子供も育てあげて来たオヤジだからまだ良いとして、晩熟で内気で自信を失ってる障害者は多いだろうし、若い人たちには解決しない苦痛でもあるだろう。
そういう人たちのために、そんなサービスを公的に考えてやっても良いのではないか? よく言ってる。
この国は遅れている。
北欧の国ではそんな公共のサービスもすでにある。
人間が歪み果てるのは、隠したり、黙殺したり、見て見ないふりを続けるからであって、堂々と、健康な話は子供の前でもする、俺はそうやって子供らと接してきてもいる。
現代社会の道徳や倫理観なんてものは、変態が自らマゾになって、隠れてムズムズして、こっそり楽しむことを強要してるだけの大奥のハリガタみたいな意味しかなくなってる。
あと何年かかるのかね~?
50年後も、この国の幼稚なオツムの大人社会では、子供はコウノトリが運んで来てるのかね~?
とうとう昨夜のアメリカの市場では、長短金利差がマイナス圏に沈んだ。
景気は下へ、確定ランプが点いたとも言えるが、トランプはどう対応するんだろうかね?
日本の国内で幼稚なエリートもどき等がお砂場遊び続けてたって、世界の潮流にはなすすべもないだろうよ。