オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

山では寒波が来て、咲く梅もある

2018-12-27 11:46:31 | 地球と生きる

 

鯨は哺乳類だから食べてはいけないとか、ならば牛や豚はどうなんだとか、日本人という島国で生きて来た歴史を考えることから離れてしまって、世界標準だとかグローバル化だとか抜かしておるうちに、日本と言う国のことが、ナニがなんだか解らなくなってるのが現代の日本人だろう。

ソクラテスから、やり直した方がエエんとちゃうか?

西暦を頑なに守って時間軸にして生活してる訳は?

怪しい明治維新によって、天皇家の宗教が仏教から神道へと簡単に変わってるが、それについての抵抗すら皇族からはなかった訳は? 血は絶えておるのではないのか? そんな解釈がないのと同じで、訳がわからないことがずっと続いてるうちに、みなオツムがテンテン、猫の顔洗いばかりになってる。

猫は興奮を抑えたり、感情を隠すとき、のんびりと、しかし頻繁に毛づくろいを始めたり顔を洗い始める。

本当は不信と不安のカモフラージュと言う奴だな。

 

海外留学や海外赴任の後に帰国した連中のほとんどが、海外では日本という国の話が出来なかったという現実を抱えて、阿呆面さげて帰国してる。

なんでもそうだけんども、まず自分の日常生活の価値観をしっかりと持つこと、それが最優先にしなければいけないことだが、それをおざなりにして、空虚な群れに流されるまんま生きて来てる日本人は、日本を語れない。

アクシデントが日常に起きて判断を急かされるとパニックになり、自分では即答ができなくなる猿の病だ。

自分を語れないのに、自己主張など出来るものでもなく、増して日本を語れる訳がない。

日本を語れないのに、ナニが世界標準だ? グローバル化だ? 俺は若い頃から随分と笑わせてもらってる。

エコノミック・アニマルと呼ばれた世代が、今の60歳後半から80歳くらいまでの世代だった。

海外の彼女の元へ一人で出掛けておった俺は、嫌というほどにそんな阿呆どもの群れて大騒ぎする下半身猿を見た。

とうとう、日本と言う国も国家の体を為さなくなってしまってる、それを痛感したもんだった。

世界のなかで、どういう国なのか? が無い。

地球上でどういう人類の種で生きているのか? が無い。

歴史も捏造と創作、自作自演と自画自賛だけで誤魔化すことも難しくなってる。

役者の粒が酷すぎる矮小さ、それだけでも行き詰まっている。

子供にすら説明のつかないことを、大人社会や国家が平気でやっている。

これは日本だけの話でもないだろうが、島国の日本は特に閉鎖的に劣化して、愚民ばかりが大量生産され、大量消費の役回りを見事に演じさせられている猿、だ。

 

まず日本と言う国の本当のことを知ること、それが教育に無い。

色付けされて教科書に載ってる日本や、煽るようにメディアで語られてる日本ではなくって、本当に知りたいと思う日本のことは、自分の目で確認して歩く作業から始めるべきだろう。

情報は自分で集め、解釈は自分でする、すべてセットで売ってる日本を、コンビニで買うのでは駄目だ。

猿真似の上手い下手だけがアジアの優劣なのか?

西洋の歴史ですら、キリスト教やユダヤ教の歴史ですら根本からその信憑性が揺らいでいるいま、人類の歴史だって怪しいものだと考える時期になっている。

俺が20歳の頃に想っておったこと、人類そのものの価値観の大転換期がやってきてる。

金儲けだの、人間同士の優劣だの、国家間の争いだの、猿に教えたら死ぬまでやってるという自慰にしか過ぎず、宇宙の中の地球、地球の表層で生きる人類、そういう流れでモノを考えて・・・では、宇宙のなかで人間として生きるとは?・・・そういう大命題を、いままた考える時が来てる。

俺の60年そのものでもある。

ガキの頃からそれを考えている。

考えるだけでは自分とは言えず、生きて見せることが自分の確立、確立した自分でまた次を生き、生きながらにしてまた自分を考え、その繰り返しがいまの俺ではある。

ナニをして喰ってるかなんてことは、余禄でしかない。

余禄でも、自分で生きるためには自分で食い扶持は作らなければならない。

いわゆる狩猟、人間は、餌を待っている飼育豚ではない。

すなわち自立してる自営が人類として当たり前の姿。

公務員やサラリーマンや投資家のままでは、自分として前には進まない。

操り人形、そう言っても良い。

生きて居る日常の時間のすべてを、自分を知るために費やすには、自営しかない。

人間って~なんだろうか? 人類って~なんだろうか? 現実を生きる自分を介して知るしかない。

 

世界はすべて自分の内にしかない、これは有名な哲学者の言った言葉だが、当たり前の真実だろう。

自分の知る世界は、自分の認識する世界でしかなく、本当の世界では有り得ない。

知識や経験の少ない者の知ってる世界は、ごくごく小さく歪んだ世界でしかない。

人間の知能という機能の話だが、ではその認識を果ても無く拡大してゆけば、本当のことを知り得るのか? 

それは経験を伴いながら拡大してゆかなければ、仮想や空想の世界へと離れて行ってしまう。

現代のネット覗き見・又聞き社会がその典型だろう。

むかし山岳信仰に生きた山伏や修験者の中には、そこまで自分を消化しようと生きた者も多かったが、しょせんそれは社会という群れからは遮断された世界でのことだった。

人間として、人類として生きることとは別個の話になってしまってた。

17歳の頃、俺は禅寺で修行に入った時期があったが、毎晩のように禅僧と向かい合って話をしておるときに、すでに出家という、隔絶された世界では駄目だと確信しておった。

ナニが駄目なのか? 俺が知りたい人間として生きるということ、それを知るためにはあくまでも社会の中に居なければ意味を為さない、そう想ったもんだった。

それから半世紀近く、いろんなことをして生きて来た。

そのひとつひとつのことは、どうでもいいこと。

喰う為に、生きる為にイロイロやってきた方法論でしかない。

そうして人間のオスとして、あちこちに子を産ませそれぞれ育てあげてきたことも、刹那刹那の戯れにも似てる。

ただそれは戯れではあるが、それぞれに大きな意味があった。

その都度に、自分というオスを知る学習にはなった。

他人や社会はどう動き、自分はそのなかでどう生きるのか? 

常識や良識という曖昧なモノに捉われない生は、つねにそんな場所で摩擦と熱を起こしている。

そこで変わって行く自分に、またまた気が付く訳だ。

そうやって60年、ひたすらに自分の内なる世界を広げるために生きて来た俺の見てる世界は、果てしも無く広く、自由自在で、素敵と言う言葉では表せないほどに、悔いのない素晴らしい世界だ。

たぶん、皆さんの見ている世界とは随分と違っている。

 

さ~、本厄で仕事ではロクなことがなかった一年だったけんども、山や海ではとことん遊び呆けてやった。

歳男だった筈なのに、仕事ではロクなことがなかったけんども、子供らとはまたいろいろと愉しいことがあった。

生きてる方法論では、うまくいかないことの方が多いが、生きてる実感は満喫している。

たかだか100年も生きれない人間の命の時間をどう使うかは、あなたしだい。

 

・・・なにが愉しくて生きてるの? 

子供の純粋な問いに、あなたは自分の生を振り返って答えれるのか?

俺はさ、いくらでも答えを持っている。

それも常に言葉ではなく、行動を持って答えてやれる・・・とびきりの奴を・・・さ。