美作の風

岡山・美作(みまさか)発の美味しい♪楽しい♪感動の日々♪
お庭造りとお菓子作りとガラスが大好き♪

第一回エピングの森レッスン♪

2010-05-08 | 日々の出来事

美作は

今日も 快晴です

早朝から  籾蒔きをしていました

息子たち 二人も頑張ってくれましたので

お昼前には 300枚ほどの苗箱を並べ 苗代が出来ました

我が家は

土作りから お米になるまで 一貫して我が家でします

今年は 

昨年の様な 大水害に見舞われないように 願っています

昔からづっと食べ続けているような 

いつもの 美味しいお米が

今年も 無事収穫出来る 自然環境であって欲しいです

今日の 籾蒔きは 後日 記事にします

 

さて  さて

昨日の午後は

楽しみにしていた 

エピングの森での 母の日用のお花のアレンジ教室に行って来ましたよ

皆さまも

Reiko先生による 素晴らしいおもてなし と お花のレッスン

バーチャル体験してみませんか~

 

 エピングの森に 着きましたよ~~

 森の中に 色んな動物が 隠れていますから お見逃しなくね~~~

 苔玉が 可愛く風に揺れていました~~~

これ 真似しよっと

さあ~

ここからは このドアの中

心のドアを開けて 心だけを遊ばせて下さいね 

(って Reiko先生なら 言うはず~~

 お花の精に 挨拶して通りますよ~~

小鳥さんにもね~~~ 

可愛いおうちの中には 誰がいるのでしょうね~~ 

「こんにちは~~」 

うさこちゃんにも ご挨拶~~~ 

さあ

エピングの森の 空中テラスは もうすぐですよ~~ ~

 この階段の上ですよ~~~

いい感じでしょう 

ここにも うさこちゃんが~~~ 

小鳥さんも~~~ 

エピングの森の魅力は

この広い空と。。。 

爽やかな緑の風と。。。

 手の届きそうな 大きな樫の木と。。。

何よりも Reikoさんの優雅なおもてなし 

 薔薇の香りのウエルカムティーをいただきましたよ

もう どこのコーナーも 綺麗です~~

レッスンがある 午後には

朝までの 雨が 嘘のように晴れ 雨上がりの緑が 

 叫びたくなるほど 綺麗でしたよ~~ 

 あんまり綺麗なので

レッスンの事も忘れて 写真を撮るのが楽しくて楽しくて。。。

さあ~~

レッスンは お家の中でありますよ~

ぞれぞれに別けられたお花を持ってね~~

アトリエの中が また 素敵なんですよ~~

皆さんも 

ご一緒に ど~~~ぞ

引き続き 

「第一回エピングの森レッスン・続き」 も ご覧下さいね~~~

 

       


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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
2位だらけ (ショウちゃん)
2010-05-09 00:40:52
 あちこちに足跡だけ残してます。エピングの森には斬新な標識まで立っている。
返信する
ショウちゃんさまへ (Mrs.K)
2010-05-09 06:07:31
エピングの森の標識は、ショウちゃんの足跡と一緒で、見ようと思う人にしか見られない場所に立ってますよ~~~~♪
返信する
お世話になりました。 (みえきち)
2010-05-09 07:38:13
連休にはお世話になりました。
有難うございました。

また秋には宜しくお願いいたします。


いいですねぇ。
私もブログで参加したつもりになって楽しんでいます。
返信する
みえきちさまへ (Mrs.K)
2010-05-10 06:32:11
おはようございます~♪
今日は、雨が降りそうね~

あの、嵐のような忙しさは一段落しましたか??

こちらこそ~~
すぐ秋が来ますよね~笑
空いてたら、いつでも行きます~

そうそう、まだまだ、バーチャル参加で我慢してね~~笑 頑張って~~~♪
返信する
柏原織田藩 (ショウちゃん)
2010-05-10 11:17:53
 柏原藩の解説。間違っていたよう。

 例により、ウィキペディアのまる写し紹介。
織田信成君は、多分、信長の二男である信男の5男の子孫なんでしょう。信長もその(男の)子供もみな20人くらい子孫を残しているので、徳川の代になっても根こそぎ抹消はできなかったんでしょう。

織田信長の弟・織田信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封された。これが柏原藩の立藩である。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したが、戦後は改易されずに済み、大坂城で豊臣秀頼に仕えた。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去した。その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子無くして死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は天領となった。

元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男・織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が立藩された。これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという宇陀騒動を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったのである。信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こった。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人のリストラ、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行したが効果は無く、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こった。

第5代藩主・織田信守はこのような中で奢侈に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨んだ。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動)や保野騒動が起こり、藩政は大いに乱れることとなった。第6代藩主・織田信古の時代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生した。このような中で第8代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行する。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立した。第9代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んだ。

幕末期、信民とその後を継いだ織田信親は、尊王攘夷運動を目指して行動する。このため早くから官軍側に与し、明治2年(1869年)の版籍奉還で信親は藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により柏原藩は廃藩となり、柏原県となった。

なお、織田氏の諸藩では、織田信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続した。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在したが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶している。

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