餃子の街・宇都宮  ある菓子店のひとり言・・・

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

東日本大震災から1年・・・

2012年03月11日 00時08分55秒 | 地震
昨年、2011年3月11日、午後2時46分
それは、小さな地震から始まった・・・。
何のことも無く直ぐに終わるはずだった・・・・。

しかし、段々とその大きさは増して行き、かなりの大きさに・・・。
家がギシギシと鳴り始め、そんな大きな地震はたった61年の人生では経験したことは無かったような
恐ろしさだった。

家が傾くと出口から出られないと気が付き、サッシの出入り口を開放する。
(とにかく揺れが長かったので、そんな機転も利いた)
外に出てみると、道路には車が停まっていたが、皆左右にかなり大きく揺れている。
信号が変わっても、そのままだった。

家が潰れたら何処にいたら助かるか?
そんな事まで考えていた。
前に倒れてたら、道路の方に行くし・・・、横に倒れたら真横に来るな・・・。
そして、いつの間にかどちらに倒れてもいい様に、ななめ前方で様子を見ていた。

気が付くと、愚妻はまだ家の中で食事をしていた筈と戻ってみると、
上の棚からいろいろなものが落ちてきて作業台の上やその下まで、物が散乱しまくっていた。
落下物が次から次にあるために、その場を離れられなかったのだ。
テレビだけは、こんなこともあろうかと動かない様に止めてあった。

ここはいいから、店の方に行って逃げる用意をするようにと(倒壊の前に)言って外に出した。
この間4~5分はあったように記憶していますが、かなり長~く感じられました。
暫くは、店のショーケースに捕まって時をやり過ごした様に覚えています。

揺れが静まり、2階の様子を見に行ったが毛布の塊りが落下していて、
段ボールも案の定落ちていた。
電話は、もう一揺れで落ちたろうと思われるほど、冷蔵庫の上から落ちかけていた。

奥に行くと、菓子箱が棚から散乱していて足の踏み場もないほどの修羅場と化していた。
泥棒でももっときれいに探すよ、というくらいだった。
片付けを始めると、余震が襲ってきて直ぐに階下に降りる事を、
2,3度繰り返したが直ぐにやってくる余震には勝てぬと諦めた。

原発が使えなくなると、直ちに計画停電なるものが出現!!。
2~3度、停電を経験させられた。
真っ暗い中で、灯りをその都度移動してもらいながら、どら焼きを焼いてみたが
どうにもやりづらいものだった。

1年経ってみても、めったに巡り合わない、体験出来ない大地震に今でも鮮明に覚えています・・・・。

        ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

家が流され、家族も流され、仕事も無くなって生きる希望も無くなった方達や、
原発で、家族がバラバラにされて、1年ぶりに逢えた人たちにも貰い泣きする昨今。

妻の行方も探せずに、市長の責務を全うする責任者の姿にも同情を誘われ、
階上中学校卒業式の「天を恨まず、運命に耐え、助けあって生きて行く」の言葉にも、
南三陸町の遠藤未希さんの、命を賭しての呼びかけにも胸を打たれました。

被害に遭われました皆様の少しづつでも、一歩でも前に進めるような復興が出来ます様に
祈らずにはいられません。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする