餃子の街・宇都宮  ある菓子店のひとり言・・・

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いのちと絆(きずな)のメッセージ・・・2

2010年06月18日 23時18分43秒 | ラジオから・・・
NHKラジオ①(月)15時45分頃、「いのちと絆(きずな)のメッセージ」が放送される。
(先月5/12にも、掲載しました)
昨夜、就寝前に最近聴いていないなーと気付き、訪れてみました。

5月17日をクリックしますと、以下の文面が出てきます。
(転載させて頂きました)

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いのちと絆(きずな)のメッセージ

5月17日
鹿児島県在住 匿名希望 70代男性

私たちは、昭和39年4月1日、南九州のとある町の料亭で
ごく一般的なというか、当時として世間並みの挙式をあげ
夫婦となりました。
この日は気候もよく、料亭の桜の老木は
幹が折れんばかりに花を咲かせ、私たちの門出に花を添えてくれました。
当時は、東京オリンピックの開催で
日本全体が、経済大国への始動を始めた頃でした。

その晩、二人だけになった時
共に元気で仲良く暮らそうねと誓い合ったにもかかわらず、
妻は、その日からわずか10年目の
昭和46年6月、36歳の若さで
私と小学2年に進級したばかりの一人息子を残して旅立ってしまいました。

とても働き者で、私には出来すぎた妻でした。
当時、私は、事業の失敗で多額の負債があり
それらを一日も早く完済して、親子三人むつまじく暮らす日を夢見て
一生懸命働いてくれました。
私の両親に対しても、本当によく尽くしてくれました。

働き過ぎがたたったのか、肝臓を患い
医師から、「すでに手遅れです」と告知された時には
「まさか」という思いとともに、
それほど重篤とは考えていない妻の顔を見ると
こみ上げてくる涙を抑えることが出来ませんでした。




妻は入院から42日目、帰らぬ人となりました。
亡くなる日の午前中、久しぶりに息子が面会に来て
楽しそうに語り合っていた最期の姿。
そして、私が「今夜はベッドの横に長いすを並べて
添い寝をしてあげるからね」というと
嬉しそうに「うん」といってニッコリした妻の顔が
昨日のことのように思い出されます。
妻はそれから2時間ほどして、急死してしまいました。
あまりにもあっけない、瞬時の出来事でした。
お母さんの死を知らされた息子は、
応急処置室に横たわる母親の周りをくるくる周りながら
「お母さん、お母さん」と泣き叫びました。

今息子は、45歳。二人の子どもにも恵まれました。
妻が生きていたら、孫達をどんなに可愛がり
どんなにか喜んだことかと思うと胸が痛みます。
最愛の息子と瞬時に引き離され、どんなに心残りであったかと思うと
不憫でなりません。

妻には苦労ばかりさせました。
罪ほろぼしという分けでもありませんが、
この30数年間、どこへ行くにも妻の写真を肌身離さず持ち歩いています。
珍しいものを見たとき、美味しいものを食べたとき、
景色の良いところへ行ったときなど
写真を出して一緒に眺め、話しかけています。

夫婦は愛し合って、求め合って一緒になるものです。
どちらが先に逝っても、
「生前、あんなに大事にし、大切にしてあげたのだから」と思えるほど
いたわりのある夫婦であれば良かったと、
妻が天国に召されて初めて悟りました。
きょう、今が大切なのだということを知りました。




どうぞ皆さん、たったひとつの命です。
私のように後悔することのないよう
きょう一日を、夫は妻を、妻は夫を大切にして
いたわり、励まし合って生きて下さい。

喜びも悲しみも、夫婦で共に語り合える。
これが最大の幸せであったということを
亡き妻に教わったと思っています。
私は、亡き妻を生きていたとき以上に愛しています。

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他にも、メッセージがございます。
お読みになりたい方は、http://www.nhk.or.jp/tsunagaru/inoti/list.html にどうぞ!。




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