カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

マークスの山

2010-08-24 16:17:17 | 本日の患者さん

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山とは何だろう――――――。
水沢や《マークス》の男たちを狂気に駆り立てた山は、学生時代から登山を嗜んできた合田には、当初から避けがたく自身の身体の記憶や感情を呼び覚ますものだったが、それはなおも止まなかった。山に登ると、日常の雑多な思いは面白いほど薄れ落ちていき、代わりに仕事や生活や言葉の覆いをはぎ取られた自分の、生命だけの姿が現れ出る。凝縮され、圧延され、抽出され、削ぎ落とされていくそれは、自分でも驚くような異様な姿をしているのが常だったが、その体感は一言で言えばこの世のものでない覚醒と麻痺だった。登り続けるうちに鼓膜が耳鳴りを発し、皮膚は寒さを感じなくなり、筋肉や心臓の苦痛が陶酔になる。その麻痺が、ほとんど死に向かう爆発や開花のようになる。ザイル一本で天空にぶらさがった身体に満ちる歓喜は、生命の最期を待ち望む一瞬に近く、底雪崩の轟音に耳をすます身体の鈍麻は、、おそらく死そのものの鈍麻に近かった。その異様な一刻一刻が、或る強烈な心地よさと解放感に変わる瞬間があった。 合田はある時期、そうして自分や加納がなぜ、より高くより険しい過激な登山を繰り返すのかを知ったが、自己破壊の、あのおぞましい衝動を止めることが出来るぐらいなら、初めから山には登っていなかった。互いにさまざまな感情や生活や仕事の問題を抱えながら、話し合う言葉を持たず、自分の向かうべき方向を知らず、何もかも叩き潰すようにしてひたすら登り続けたのが山だったのだ。しかしまた、ほんとうはどうだったのだろうかと合田は思った。そうしてむき出しの生死を共有することで、ほんとうはどれほど強い感情がそこに生まれていたか。身体の麻痺と生命の興奮の刹那に、どれほどの倒錯した執着が生まれていたか、と。

高村 薫 『マークスの山』より 講談社文庫
       
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自然と人間の関係。
これは永遠のテーマなんだと思う。

徳さんたちは、自然との協調を学校や社会から教え込まれて育った記憶がある。

しかし、徳さんたちの世代を挟んで一世代ずつが実際に行ったのは、経済的発展を潜在的理由とした徹底的な自然改造、自然破壊であった。

今、地球という生き物が、帳尻を合わせようとして、均衡を取り戻そうとして悶えている。
何十年後かに帳尻を合わせ終えた地球の姿は、現在のそれとは怖ろしくかけ離れたものになっているだろう。

なんてことは、この小説とは何の関係もないが、、、。

徳さんは山男の心理なんてものに今までほとんど興味がなかった。
雪山の山頂に立つ爽快感が想像できるぐらいだけだった。
肉体の限界で過酷な自然に対峙する事によって、己の肉体と精神が変質してしまう。

警察小説と言われるこの本には、ほとんどそんな事は書かれていないが、隠されたテーマはそのものズバリ《山》


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