カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

もう牛を食べても安心か

2009-06-26 13:18:42 | 本日の抜粋

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 フグ毒と狂牛病病原体が同列に扱いうる〝毒〟ではないことは明らかである。プリオンは可変的で可動的で増殖を行なうのだ。しかし、ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のものである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。
 つまりリスク分析は極めてポリティカルな方法論なのだ。限られた予算をどのように分配するか、対立する利害をどのように調整するか。このような政治的問題を前に、本来甲乙つけがたいものに優先順位をつけ、本来線引きできないところに強引に線を引いて白黒をつける。それが政治であり、月齢で判断できる問題ではないにもかかわらず二十ヶ月月齢以下の牛は全頭検査から除外してもリスクは増えないとした判断の正体がここにある。
 死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたいしたものではなくなるだろう。。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である 。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。
 リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行なうことしかできず、リスクの持つ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も持ち合わせていない。
 しかし、狂牛病が私たちに問いかけているものはまさにこのことなのである。いかに現状を改革し、いかに損なわれた平衡の回復を求めればいいのか、それを狂牛病は問いかけているのである。

福岡 伸一 『もう牛を食べても安心か』より 文春新書

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『生物と無生物のあいだ』という本で、現代生物学の最先端を紹介してもらった。
そしてこの『もう牛を食べても安心か』はその応用編だ。
狂牛病という不可解で怖ろしい病いを読み解こうとするとこうなる、と言っている。

狂牛病を理解するには、消化というものの本質を理解しなければならない。

異なる生き物のタンパク質を摂取し、分子のレベル(アミノ酸)まで分解する事。それは外から摂取するタンパク質のあらゆる情報を解体する事である。
自分と同種、近位種からのアミノ酸摂取は、その情報が紛れ込む事がある。
自然はそれを避ける仕組みを何十万年の歳月をかけて創り出した。

人はそれを裏切った。
生産性という美名の下に。

事が明らかになっても、政治は経済優先で、御用学者を使い統計を操作し、対応を不徹底なものにしている‥‥‥

最近時々テレビで拝見するようになった福岡さんの穏やかなたたずまいからは、にわかに想像できない、厳格な生物学原理主義者の言説である。

遠いところの物を食べよ!!

福岡氏は生物学者の立場から、遺伝子操作食品にも臓器移植にも反対されている。

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