岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

なぜ被爆国日本が原発推進国になって行ったか。

2012-05-11 19:46:04 | 原子力発電
まず、情報の発信が極力抑えられていたことがある。
米軍は戦後いち早く広島や長崎に入り被害状況を調査している。
しかし調査内容の発表はなかった。
新聞記者の取材も制限された。

国内の新聞社がどのように報道していったのかは十分に把握していないが、手元にある山陽新聞120年史(本社:岡山)を見てみると、戦争中は軍部からの、戦後は米軍から規制があり報道に自由がなかったことがわかる。
地元紙である中国新聞は原爆による被害甚大の上、詳しい報道は許可されなかったとある。

原爆投下から10日も経たず、8月15日を迎えた。
ほとんどの国民の関心は自分たちのこれからの生活となっただろう。
報道されない他県のことを心配する余裕はなかっただろう。
原爆被害者と他の人々、国民はここでも二分されていた。

では世界の動きはどうか。
まず原爆開発推進が各国で推進されるとともに、原子力を動力とした原子力潜水艦の開発が進む。
1954年原潜「ノーチラス」、1960年原子力空母「エンタープライズ」進水。

1953年にアイゼンハワー大統領が国連にて「Atom for peace 」と題した演説をする。
軍事的な原子力動力を民生用に発電として利用することへの布石となった。

1954年、中曽根を中心に原子力平和利用のため予算案が国会に提出される。

戦後10年も経たない間に、原子力をめぐる状況は急激に変化してしまった。

軍事利用の核から、平和利用の原子力へと。

「核」と「原子力」という用語の意図的な使い分けも見逃すわけにはいかない。
原子力発電は、核発電であり、用語を使い分けることで、人々の抵抗感を弱めている。
例えば、非核三原則といったときに、非原子力3原則と置き換えることはできない。
現に国内に原発があるのだから。

非核とは、非「軍事原子力」でしかない。

そうして、私たちは、核と原子力を使い分けていくうちに、核と原子力は違うものだと思うようになった。
もちろん、意図的な操作はあったが、国民自らも積極的な考えを持つようになった。

最近の政治家の発言からも読みとれる。
「原子力開発を継続することは潜在的核抑止力を持つことであり必要なことだ」。
自民党の石破元防衛大臣の発言である。
しかしこの考え方は、彼だけのものではない。
1954年中曽根が「原子力平和利用のため予算案」を提出した時にも潜在的動機としたあったはずだ。
核の威力を知った国こそ、核を手にしなければならないと。

このような政権の野望に対して、原爆反対運動は行われたのだろうか。
原爆には反対しても、原子力開発への反対は微力だったと言わざるをえない。





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