雲上快晴

プーさん爺じが、何の変哲もない日々を綴る

落とし所はないのです

2007年05月20日 | 卓球
 仕事をしている中では、相手との利害関係が対立したり、意見が食い違う時、いわゆる落とし所を模索するという行為を取ろうとします。
 むしろ、いつも落とし所を探っていると言ってもいいくらいかもしれません。

 ですが、この卓球と出会ってしまうと、「それは違う、絶対にやっちゃダメだ」と断言してしまう自分を感じるはずなのです。
 たかが卓球の理論の違いで、何でこんな風に思ってしまうのでしょうか?

 私、前々から言っていますけれど、この卓球を実践することって、卓球の技術のことだけを言っていることではないと感じているのです。
 この卓球、というか、この体の使い方をしていると、それまでの価値観や人生観までもが変わってしまうからじゃないだろうか、と感じています。

 それまで、何の疑問も抱かずに通り過ごしてきた風景のある一部分に、妙に引っ掛かりを感じたり、その逆として、それまで拘っていたものが大した意味のないことに思えたりと、180度、物の考え方・生き方が変わってしまうのです。

 180度変わるということは、プラスとマイナス、N極とS極なわけですから、そこで折衷案を考えたら『ゼロ』になってしまう、ゼロは動きが無い状態、いわゆる「死に体」と表現してもいい状態ですので、【生き場】が無いのです。

 ですから、落とし所・折衷案を模索することは不可能だと思っているのです。
 思いの違う相手を排除するか、自分から一人になるか、二者択一の世界しかないのですよ。

 更に困ったことに、こっち側の世界というのは、極めて「感覚論」の占める割合が高いので、他の人にその感覚を伝えることが難しいし、ある意味、自分の中での追求なので、それをいちいち他人に教えるものではないので、広く理解を得られるものではないのです。

 【一目惚れ】、こう思えない人には絶対に理解できない世界なのです。
 物心着く前と、老いさらばえた時に、自然にそうなってしまう世界なのですが、元気な時には排除してしまう、宝の宝庫なのに実にもったいない話ではあるのですよ
コメント
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