雲上快晴

プーさん爺じが、何の変哲もない日々を綴る

アホな話

2015年10月31日 | 回想録
 毎年、秋鮭が出回る頃になると思い出すことがあります。

 高1の時の現国の教科書に、鮭を取る漁師の話があったのです。

 その話は、漁師の優しさというものにスポットを当てていて、最後のくだりでは、「産卵のために川を遡上する鮭が、浅瀬の川底の石に削られて身体がボロボロになる前に取ってやる漁師の優しさ」を説いていました。

 私は、このくだりに何とも我慢がならず、先生に、「この作者は偽善者ですよ、鮭が産卵して身体が痛んでしまってからでは商品にならないから、浅瀬を遡上する前に取るだけでしょ、それに鮭の立場から見たって、産卵という種の保存の営みを道半ばで阻まれるというのは無念じゃないですか、これのどこが優しさなのか理解できません」と食って掛かりました。

 先生からは、「捻くれた考え方だ、もっと素直になれ」というような内容で叱責を受けました、その日を境に現国の授業と先生が嫌いになったのは言うまでもありません。

 こんな平安貴族を養成するような教科書で授業を受け続けていたら、「平和ボケ」するのが当たり前ですね。

 今でも、この話、教科書に載ってるのかなぁ?
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の一番好きな唄は

2015年10月29日 | 回想録
 若かりし20代の頃、くだらない会社のしがらみや、事なかれ主義の上司・先輩達に対して、マグマが溢れ出すくらいに憤っていた時のバックボーンとなっていた唄なのです。

 この唄があったから今の自分がある、と言っても決して過言ではないかもです。。。



 この時、武道館に確かに私はいました、涙が止め処なく流れました。

 原点回帰
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年もいろんなことがあったな

2007年12月22日 | 回想録
 家族が寝静まってしまった今、パソコンに向かいながら焼酎をチビチビと飲んで、まったりとした時間を過ごしている。

 「今年もあと10日足らずで終わってしまうのだなぁ、思い起こしてみると、今年も話題には事欠かなかったなぁ」などと考えている。

 1月に前のクラブを辞めて津田一真塾一本にしたのだった、30年以上もほったらかしにしていた休耕田の草を刈り、野菜の種を蒔きだした。

 かまどの部屋を作ったのも今年に入ってからだったろうか?1日半で作り上げてしまった掘っ立て小屋だったけれど、ランプと蝋燭の灯りの中にいると妙に心が落ち着いた。

 べし号やじゃじゃ馬も買ったのだった、思いのほか大飯くらいのベシ号だったし、じゃじゃ馬には痛い思いをさせられたっけ。
 「アキラ」の登場は感激だったな、真っ暗になるまで草刈をしていたところに、まるでサーチライトをつけた戦車のように登場したのだ、あの時はほんとに勇気付けられたよ。

 初めて蕎麦を蒔き、石臼やクルリ棒、唐箕まで揃えてしまった、やっぱり変人だと思われても仕方がないか。

 卓球のほうも紆余曲折あったけれど、シンノスケ・タンポポ・ヒマワリ達が第一期の塾生として元気に頑張ってくれた。
 谷戒さんやヒデさん、卓球太さんや悟空さん達もも定期的に来てくれて、楽しい時間を共有できた。

 最期に来ての義父の他界はきつかったけれど、いつかは訪れる世の習いだから、しっかりと受け止めなければいけないことなのだな。

 さあ、来年はいったいどんなことが待ち受けているのだろうか?
 平々凡々とはいかないだろうということだけは、解っているつもりだけれど。

 山あり谷ありだから面白いのだよな、真っ平らな道じゃ眠くなっちゃうよな。

 「レッツ ビギン」、とにかく何かを始めよう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々に

2007年10月26日 | 回想録
 回想録といきますか。

 高3になると志望大学別にクラスが編成されたのです、1組2組の家政科は別として、3~5組は私立文科系、6~8組は国立文科系、9・10組は理科系と。

 私は、理数科が苦手だったので私立文科系を選び、3年4組となったのです。
 私文のクラスには変わった奴が多くいました、国語・数学・理科・社会・英語という主要5科目のうち、理科と数学に対して著しくアレルギー反応を起こす、総体的なバランスに欠けている輩の集まりですので、他のクラスの人間から見れば、単なる落ちこぼれ集団に見えたはずなのです。

 そんな3年4組の担任は英語を担当する女の先生でした。

 ある日の英語の授業の前に、クラスの委員長が「机を反対側に向けようぜ」という提案したのです、普段は全く纏まりの無いクラスだったのですが、そういう時だけは妙に一体感が生じて、誰も文句をいうこともなく机を反対にして先生の来るのを待ったのです。

 担任英語教師が、普段どおりに教室の前の扉を開けて入ってきました、皆は後ろを向いている状況です。

 私達は先生がどんなリアクションを見せるのか、笑いをこらえて神妙にしていたのです。

 するとその担任先生、一瞬固まりましたが、瞬時を置かず何も無かったように、教室の後ろの扉から入りなおして、教室の後ろに掛けてあった連絡用の小さな黒板を使って、淡々と1時限の英語の授業を終えて去っていきました。

 その先生の心の広さと柔軟性に、全員が拍手で応えました。

 その後も何のお咎めも無し、、、一本取られたと誰もが感じた、先生の気合でした。

 そんなどうしようもないクラスでしたけれど、慶應や早稲田、立命館に合格したやつらもいたのですよ。

 立命館に合格した奴は、毎日遅刻してくる男で、ゴロワーズを吸っていた奴でした、大学に進んで1年も経たずに消息不明になってしまいましたが・・・

 そんな環境が、「変人倶楽部」の誕生に繋がっていったのです。

 そのうちまた、続きを書きましょう。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は

2007年09月05日 | 回想録
 中学の同級生だった奴の命日なのだ。

 高2の時に、私のバイクで自爆した奴。

 親友だった、私の弱さを全て話せる奴だった。

 営業部長が赤ちゃんだった時に、奴のお墓参りに連れて行ったら、それまで上機嫌だった営業部長が、狂ったように泣き出したのだ。

 「俺だけ幸せになってすまん、だけど、俺達を守ってくれ」と嘆願した記憶がある。

 あいつが逝ってから31年か、もうすぐ神様になるんだなぁ。

 お前が神様になったときに、一つだけ聞いて欲しい願いがあるのだ、明日、お前の墓前で頼むから忘れないで欲しい。聞いてくれたら、俺のすべてを差し出していいからさ。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変クラ30周年

2007年03月02日 | 回想録
 トップページにも書きましたが、変人倶楽部が出来たのは30年前だったのです。(正確には31年かな?)
 当時のメンバー諸君は、今、どこで、何をしているのでしょうかねぇ?

 とにかく何かに憤りを感じていた奴らが集まってきたサークル?でした、何の決まりも無い、メンバーも行き当たりばったり、悪さをしてみたり、本気で議論をしたり、体の内側から湧き上がってくるマグマをコントロールすることができない面々の集まりだったのかもしれません。

 もうすぐ50に手が届く年になって、ひょんなことから「たなかし」さんとの現象面での付き合いが復活して(何年会わなくても気持ちは繋がっていたのですよ)、こんなホームページも作ってしまったし、カマド小屋まで作ってしまった・・・
 生き方・考え方も現代の一般常識から見たら、十分変わっているでしょうし、卓球も変わっている、でもそれが楽しいのです。

 変人でも過半数を占めた途端に常識人になってしまうのですよね、そうなった時には、また違った角度で物事を見てしまうのでしょうね私達は(達はないか)。

 卓球という一手段によって、世の中の常識をかき回してやろうっていう、いたずら心満杯の自分を感じているのです。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ男子クラス その4

2007年02月07日 | 回想録
 久しぶりだなぁ(毎回言っているような・・・)
 
 隔離病棟のような男子クラスだったけれど、楽しいこともそれなりにあったのだ。
 前にも書いたけれど、一学年10クラスのうち、家政科が2クラスあるのである、当然のことながら全員女子。
 家政科の授業には、料理実習があるのだ、そう、家政科の女の子たちと仲良くなると、授業で作った料理を持ってきてくれるのである。

 女性の気持ちはよく判らないけれど、自分が作った料理を持っていく先は、何故か男子クラスであって、共学クラスの友達の所へは決して行かないのである。
 でも、男子クラスに料理を持ってくるという行為にもかなりの勇気がいったと思うのだ、何故なら、女子が料理を持ってきた瞬間に、我々男子クラスの窓が一斉に開放されるからだ。
 お目当ての友達が赤い顔をしながら廊下まで料理を貰いにいく、貰えない奴等は「ヒューヒュー」と指笛を鳴らすのである。

 料理を貰うためには、家政科の女子と仲良くならなければならない、仲良くなるチャンスは? しっかりとあるのだ、修学旅行という勉学の名を借りた合コンの場が。
 2年の秋に行く修学旅行、共学クラスはクラスだけで行動するのだけれど、男子クラスと家政科クラスは何故か行動を共にするのである。
 1組(家政科)が9組(男子クラス)と、2組(家政科)が10組(男子クラス)と一緒に行動するのである。
 異性との接点を半年間も隔離され、日の当たらない教室に押し込められていた『青春』のエネルギーが一気に爆発する『七夕』のような時間、ここを逃したら明日からまた不完全燃焼の日々が待っているのである。
 だから男子クラスの面々は、この瞬間に最高のパフォーマンスを演じようと、半年前から用意周到に準備をしているのである。

 こうして、修学旅行を境に、多くのカップルが誕生し、実習で作った料理が運ばれてくる数が増えていくのである。
 料理を受け取った奴の、「俺って勝ち組?」っていう顔がホントに許せかなった。

 俺も「食いたかったぜー!!!」
 そう思ってるだろ、たなかしさん、YAMATOさん・・・
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ男子クラスその3

2006年11月23日 | 回想録
 久々に書きますねぇ。
 高2の時にクラスが一緒だったO場君(そのままですか)、イジメられキャラでしたね。
 ある日の休み時間に、彼が他のクラスに遊びに行っている時に、彼の机と椅子を校庭の真ん中に持っていってしまったことがありました。
 休み時間も終わり、自分のクラスに帰って来た彼が、その置かれた状況を把握できなくてオロオロしていたことが、昨日のことのように浮かんできますよ。
 でも、その後の彼の対応については全く覚えていません。

 H田という悪友もいましたね、50音順の席でしたので私の後の席に座っていた彼なのですが、午前中に彼に会うことはほとんど無かったような気がします。
 聞くところによれば極度の低血圧症で朝起きることが出来ないということでしたが、よくよく考えてみれば、夜中に起きているから朝起きれないだけだったような気がします。
 変クラのテーマソングである「夕暮れ」の作者です、私の結婚式以来音信不通になっている彼です。
 誰に聞いても所在がわからない、一体何処で何をしているのでしょうか?
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ男子クラスその2

2006年10月02日 | 回想録
 隔離病棟のような2年10組に入れられての憂鬱な新学期が始まった。
 しかも、担任は学校中の生徒全員にで嫌われていた「ブタヒラメ」と呼ばれていた先生。(たま~に、好きだという変人の外の変人もいたけれど)
 
 しかし、神は我々を見捨てなかった。

 教室の目の前にある旧講堂では、時々女子の体育の授業が行われていた、新体操のような、いわゆる創作ダンスというものだ。
 「目の保養」という言葉があるが、その当時の俺達(数人かもしれない)にとっては、目の保養だけでなく「心の保養」として荒んで傷ついた心を癒してくれたものだ。

 当然のことながら、「心ここに在らず」状態であるから、授業の内容など全く感心がないわけで、それに伴って成績は比例下降線を辿っていったのである。

 このシリーズは長いぜ・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ男子クラスその1

2006年09月25日 | 回想録
 入学した高校は、普通科8クラス、家政科2クラスの1学年10クラス。
 普通科は男子が多くて2クラスが男子クラスとなる、1年も終わりに近づいた頃、「2年になったら男子クラスがいいか共学クラスがいいか」という意向確認が男子に対して行われた。
 「共学がいいです」なんて言うと、女に現を抜かしているように思われてしまうと考えた私は、「どっちでもいいです」とそっけなく答えたら、何のことはない、2年10組(男子クラス)に入れられてしまった。(本心を吐露すれば良かったと悔やんでも時既に遅し)
 しかも、男子クラスである9組と10組は、他の同学年のクラスとは棟が違うばかりか、旧講堂の真後ろの棟の1階で日が当たらない。
 まるで隔離病棟のような環境だったのである・・・・つづく
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする