考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

養老先生と気が合うみたい(笑)

2007年04月17日 | 養老孟司
 中央公論5月号の「鎌倉傘張り日記」に大いに同感してしまった。(笑)
 
 以下、「>」の後は引用。

>われわれの現実を決めているものはなにか。それが自分自身だと言うことは私には明白だった。
 
 この部分の後は略。ちょっと違うし、よく分からないところもある。

 仮面浪人した頃、親と自分の現実は違うんじゃないかと思った。同じものを見ているはずなのに、全く違うことを言い合う。それで、私は、真実は人によって違うと思った。もっと言うと、真実は生きている人間の数だけあると思った。後々、20代半ば頃に読んだ曾野綾子氏の文章に全く同じことが書いてあった。その頃、私の周りでそんなことを言っている人は誰もいなかった。だから、自分の思ったことが満更ウソでもなさそうだと思って嬉しかった。教員になってから雑談でそんな話をしたら、たまたまその時の現代文の教科書に、「真実の百面相」というのがあって、似たような内容だったらしい。生徒が分かってくれて嬉しかった。

>こうやって書いていても、自分の考えを表現することがいかにむずかしいか、よくわかる。人は一直線にものを考えるのではない。一直線に表現するのである。さもなければ、話が面倒になって、相手に伝わらない。しかし本当は一直線には考えていなのだから、どうしたってウソが入る。

 以前、「作文が下手なわけ」に書いたことに似ていると思った。私は、「考え」とは巨大な分子のようなもので、複雑に絡み合っていると思っている。その記事には書いてないが、「時間」の要素も当然関わってくる。以前の考えがなんだかんだの理由で変化してどうのこうのとか。文章化するとは、上記養老先生の言葉だと「一直線」になる。私も正に、「文章化することは、立体構造のものを上手に1本の線になるように切り取っていくことなのだろう。」とそのときに書いているよん♪♪ でも、それは難しい。だから、養老先生は、「ウソが入る」と表現されたのだろう。確かにウソといえばウソである。

>それは幾何学と同じである。幾何学ではまず定理を習う。論理は前提を固めるところから始まるからである。でも実際には、定理は最後に発見されるのである。最後に発見されたものが、説明では最初に来る。それを実際に最初だと思ったら、既に誤解なのである。論理的説明の困難はそこにある。数学の問題ならまず解けて、それから証明がついてくる。「まず解けた」部分は意識下だから説明できない。やむを得ず事後的に「説明を書く」のである。

 学校で、いろいろ疑問を持つ。やっていることや対応の仕方が間違っていると思うことが多い。それが正しいと思うこともある。「まず解けた」ということだろう。しかし、意識化できないから、言葉で表現できないから、なぜそれが間違っているのか正しいのかの説明ができなかった。自分の考えや立場をも守ろうと、私は仕方がないから、理由を自分で考えた。自分なりの定理を発見したつもりもある。このブログはそのためのものだった。

 本当は、そんなこと、したかったわけではない。私は現実で自分を分かって貰いたかっただけだ。生徒に対してでも同僚に対してでも、「そんなの、いいわけないでしょ。」「それは良いことだ。」本当は、私は、それだけ言い切れれば良いはずだったのに、適わなかったということだ。

 今の教育界は、私の教育観に合わない。相変わらず、疑問に思うことが多い。最新の疑問は、人間があまねく勉強をするってのは、本当のところ、どういうことなのかな、ってところかな。(笑)

 考えるのは好きだが、結構辛いところがある。自分の無意識を掘り起こす作業だからだ。少なくとも、よほどアタマの良い人でない限り、はっきり言って健康的ではない。人間が動物として生きている感覚の世界を無視するかのように、異様に抽象の世界に入り込むことになるからである。(言語は抽象の世界である。)私が自分で考えていることは自分の能力をはるかに越えている気がしてならない。(笑)

 

8 コメント

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Unknown (執事)
2007-04-18 16:33:45
お久しぶりです。
無事、心理学科に入る事ができました。

「定理」の部分についてなのですが。
まず定理を思いついて、それが正しいと感じて証明に取り組んだ結果証明される、という事例も沢山あります。
有名なフェルマーの最終定理の「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」というくだり。
これも、本当は証明に至らなかったフェルマーが後の就学者に託した、という見方があります。
また、成功譚というものが役に立たないのも、感覚的に理解していることをむりやり論理に置き換えてしまうからだと考えています。

感覚で考える。
天才は天才として、凡人は凡人として、そういうものを持つことは重要です。
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入学おめでとう (ほり(管理人))
2007-04-18 21:03:58
執事さん、お久しぶりです。実は、どうしているのかなぁなんて、思ってたんですよ。(笑)コメントをありがとうございます。

>まず定理を思いついて、それが正しいと感じて証明に取り組んだ結果証明される、という事例も沢山あります。

藤原先生が書いている、インドの天才数学者ラマヌジャンは、定理しか考えなかった人のようですね。「証明すべきものだ」という概念を持たなかったようで、今なお、証明できない定理があるとか書いてあったような気がします。

>また、成功譚というものが役に立たないのも、感覚的に理解していることをむりやり論理に置き換えてしまうからだと考えています。

「感覚」ってのは、人によってそれぞれ全然違うものなのに、共通基盤としての「言語」を用いた「論理」でまとめ上げるからと言うことでしょうか。なるほどね。

>凡人は凡人として、そういうものを持つことは重要です。

「自然」でいいですねぇ。。
で、私が疑問に思うのは、いわゆる学校の「勉強」ってやつは、意外に「感覚」を阻害する側面はないものかと、そういう心配をちょっと感じたりするのです。
勉強は、「同じ」「似ている」を探し出す抽象化の作業です。「感覚」は、異なることを見出す力ですから。。どうなんでしょうね(って、今すぐ答えを求めているつもりはないのですが)。。

どうぞ気楽にご訪問、コメントください。
また、何より、学生生活、充実させてください。
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Unknown (執事)
2007-04-19 00:44:43
>どうぞ気楽にご訪問、コメントください。
>また、何より、学生生活、充実させてください。
ありがとうございます。
自由に学べるというのは本当に面白いものです。

数学者っていうといかにも「教授」なイメージがあるんですが、世界中を放浪したりとか意外と面白い人も多いんですよね。
サイモン シンの「フェルマーの最終定理」は既読ですか?
あれは論理の良さを感じる読み物としてお勧めです。

>「感覚」ってのは、人によってそれぞれ全然違うものなのに、共通基盤としての「言語」を用いた「論理」でまとめ上げるからと言うことでしょうか。
そうですねー、論理は共通性を持つと共に「綺麗さ」を求めるところがありますから、言葉で上手く表現できないところは斬り捨ててしまう事があるように思います。
そういう部分が重要だったりするんですが。

>いわゆる学校の「勉強」ってやつは、意外に「感覚」を阻害する側面はないものかと、そういう心配をちょっと感じたりするのです。
学校や塾でやらされることだけを言われるままにやっているとそうなのかも知れませんね。

んー、ちょっと長くそして外れた話になりますが。
学校で論理を身につける子と身につけられない子がいますよね。
で、私の考え方では個人の感覚と論理は相補的なものなのです。
学校で論理を学ばず「勉強」を学んでしまうと感覚が阻害されるのではないでしょうか。

感覚と論理の関係は自他の間であっても同じで、皆が皆感覚と論理を身につけなくても、感覚に特化した人と論理に特化した人がいた方が、面白いし、いい結果を生み出すし、バランスも取れていると思うのです。

もちろん、普通は感覚と論理の両方をそれぞれの配分で持ち合わせていた方がいいので、そのチャンスを奪ってしまう教育は問題ですけどね。

これは理想なのですが、感覚も論理も自助努力で得られればそれが一番だと思うのです。
このやり方は個人の才能に左右されてしまうので、それを補うのが教育だとわかってはいるのですが。
まあ、そう簡単にまとまる話ではありませんね。
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感覚と論理 (ほり(管理人))
2007-04-19 22:40:22
執事さん、興味深いコメントをありがとうございます。

>サイモン シンの「フェルマーの最終定理」は既読ですか?

教えてくださって、どうもありがとうございます。
恥ずかしながら、読書は余りしてないんです。ごめんなさい。付いていけなくて。。。(いつ読めるんだろ? 積ん読くらいにはしたいです。(笑)でも、面白そうな本があったらまた是非教えてくださいね。)

>言葉で上手く表現できないところは斬り捨ててしまう事があるように思います。

たぶん、人間は「世界」を「言葉」で捉える。この時点で「感覚」が捉えた、感覚でしか捉えきれないものが切りすてられ「言葉」として抽象化される。それを更に極限化して捨て去って残ったものが「論理」なのでしょうか。論理って、抽象の極地ですよね。

>で、私の考え方では個人の感覚と論理は相補的なものなのです。

相補的、或いはバランスの問題だということでしょう。このバランスが崩れると不健康ね。

>学校で論理を学ばず「勉強」を学んでしまうと感覚が阻害されるのではないでしょうか。

私の考え方だと、上記のように、既に論理は「感覚」をある意味で「鈍感」にするところから始まります。でないと、言葉そのものを使うことすら出来ない。その点で、私は、「論理」と「勉強」を余り区別してないかな。

>感覚に特化した人と論理に特化した人がいた方が、面白いし
>普通は感覚と論理の両方をそれぞれの配分で持ち合わせていた方がいいので、そのチャンスを奪ってしまう教育は問題ですけどね。

以前書いたことがあるような気がするのですが、この典型がサヴァンと呼ばれる人たちだと思うんです。その能力を最大限に評価してくれる人が身近にいて活躍できるなら幸せかもしれません。
で、気になるのは、絵がとっても上手なサヴァンの女の子に、ふつーの算数を教えたら、絵が描けなくなってしまったということです。(何かに養老先生が書いていました。)

その人個人の脳が持つ能力には何らかの限界があるのでしょうね。「社会」にとっての幸福と、その人個人の幸福との兼ね合い、関わりに私は疑問というか関心を持つのです。
極論がサヴァンの人たちというのであって、これは、大なり小なり、今私が教えている高校生、進学を前提に勉強をしている生徒の全てに関わる問題のように思うのです。

直観的には、大学進学率50%という数字は、これまでの概念でいう大学教育を受けるだけの基礎知識を身に付けることができない者がいて当然の数字だと思います。

まあ、最も疎かになっているのは、自分で考え判断する方法を身に付けさせる教育がなされていないことかな。ただこれは、論理的思考力育成の問題とはまたちょっと別だと思ってます。今やり方で下手に「論理」を教えようとすると、能力の限界のある子には「ごくごく単純なパターン化思考」だけを身に付けさせることになってしまうから。これ、最悪。
能力の如何に関わらず、不可能だと思えないんだけれど。たとえ勉強が苦手であっても、一人一人の人間の能力って、けっこう凄いと思うんだよねぇ。

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Unknown (執事)
2007-04-20 00:33:41
いえいえ、人が一生に読める本の量なんて高が知れていますから、未読の本が大半なのは当然ですよ。
その時その時で興味があるものを読んで、面白かったら興味がありそうな人に勧める、ぐらいでいいと思います。
なので私の場合、積ん読はしません。

>私の考え方だと、上記のように、既に論理は「感覚」をある意味で「鈍感」にするところから始まります。でないと、言葉そのものを使うことすら出来ない。その点で、私は、「論理」と「勉強」を余り区別してないかな。

ああ、面白いですね。
そういう部分は確かにあります。

人は空の青と海の青を「青」と認識したり、ボス猿と普通の猿を「猿」と認識したりします。
「青」「猿」っていう感覚があるわけじゃなくて、「青」「猿」という概念に照らし合わせて認識している。
そこでは「空の」青「ボス」猿という感覚は斬り捨てられる、というのがほりさんの考え方ですね。
でも、そうすることで逆に「感覚とは何か?」がはっきりする部分もあると思うんです。
言語化しきれない部分がはっきりする。

論理が存在しないと論理は感覚の中に取り込まれてしまう。
感覚の認識には論理の存在が不可欠、というジレンマ。
それは論理にとっても同じことで、だから私は相補的と捉えるのですけれど。
んー、考え方を示すことしかできなくて歯がゆいですね。
どうあるべきかはそう簡単に結論付けられない。


>大学進学率50%
時代に関わらず優秀な人間とそうでない人間は一定の割合で存在しますから、そうでない人間が大学に行く傾向は今後強まるでしょうね。
日本人はますます高度な知的生産をしなくては釣り合いが取れなくなるのに、そこにいるのはさほど優秀でもない人間。
この状況においては南北問題が逆に作用するんですよね。
低い生産性でも生きていける国で高い生産性を持つと、それは強力な武器になるのに、高い生産性が必須の国ではそれが当たり前。
限りなくストレスフルです。
そんなことを考えて心理学を学ぼうと思ったのですけどね。

教育の質の低下もあるでしょうが、感覚と論理のバランスを取るだけの能力がない人間がそれを露呈してしまう状況、とも言えますね。
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言語化と感覚 (ほり(管理人))
2007-04-20 18:47:27
執事さん、コメントをありがとうございます。

私の場合、「積ん読」は、数~数十ページ読んで、止める、というパターンが多いです。いったん読まない時間がある程度続くと、読んだ内容を忘れちゃうんだよね。トシのせいか。・・・で、積ん読。(笑)印象だけは残ったりするけれど。

>言語化しきれない部分がはっきりする。

それで、人間の心理面で、なるべく言語化できる部分を増やしていったのが、文学や詩歌になったりしたのかなぁ。
それでも言語化できないのは、熟練技術者のウデの類かなぁ。海馬じゃなくて、違う部分(頭頂葉かどこか忘れた)、カラダで覚えるものなのでしょうか。

>論理が存在しないと論理は感覚の中に取り込まれてしまう。
申し訳ありませんが、ここのところは、ちょっと私は分からないです。
私は、論理はあくまでも、「抽象」で、「具体」をそのまま捉える感覚と異質のものと思います。感覚そのものの中にも、何らかの論理性というか規則性があるでしょうが、そういうのとは別物と考えます。

>感覚の認識には論理の存在が不可欠、というジレンマ。
「感覚の認識」とは、あくまでも「言語化」ってことじゃないかなと思います。

時代の流れによるさまざまな知識の普及、教育の普及で、教えられる側も、それで、高校だと、教える側のレベルも同様に下がっているのだと思います、はい。皆さん、自覚がないだけで。(自分も例外とは言いません、はい。)
少なくとも日本は、これ以上、生産性を上げなくて良いよ、というところまで来ているんじゃないのかな。
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Unknown (執事)
2007-04-20 22:51:51
噛み砕いて言えば「知らないからってそれが存在しなくなるわけじゃないよね」「見方が一つだと、全てがその見方で見られてしまう」ってことです。
個人では気付けないことですけど、感覚と論理を持ち合わせている人には「論理もひっくるめて感覚で捉えている」のが見える、みたいな。
この辺はあんまり意味のない言葉遊びでした。
混乱させてしまったのならごめんなさい。

>時代の流れによるさまざまな知識の普及、教育の普及で、教えられる側も、それで、高校だと、教える側のレベルも同様に下がっているのだと思います、はい。

時代の流れとそれに伴う変化・進化は人間の可能性というか、人間がまだまだ突き詰めていかなくちゃいけない部分を明らかにした(広げた)ように思います。
もう画一的な教育が通用しなくなってきている。
ベクトルが分散した、というか。
そこでは何を身につけるべきか、どうやって身につけるべきか?
そんな方向で考えを進めていければ。

キリがないのでこの辺で締めましょうか?
面白かったです。
ありがとうございました。
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たしかに (ほり(管理人))
2007-04-20 23:28:31
執事さん、度々のコメントをありがとうございます。

>噛み砕いて言えば「知らないからってそれが存在しなくなるわけじゃないよね」「見方が一つだと、全てがその見方で見られてしまう」ってことです。

これは良くわかります。まさにその通りですね。どうもありがとうございます。

>感覚と論理を持ち合わせている人には「論理もひっくるめて感覚で捉えている」のが見える、みたいな。

養老先生みたいな人なのかな。(笑)定理を発見する人とか。

>時代の流れとそれに伴う変化・進化は人間の可能性というか、人間がまだまだ突き詰めていかなくちゃいけない部分を明らかにした(広げた)ように思います。

誰が書いていたか覚えていませんが、人間はなんだかんだ言ってろくなことしてないけれど、まだ戦争をしているけれど、総体的に進歩していると。平均値は、少しずつ上がっていると。言われてみれば確かにそうかという気もしてきます。

>もう画一的な教育が通用しなくなってきている。
ベクトルが分散した、というか。
そこでは何を身につけるべきか、どうやって身につけるべきか?

かつての「画一性」は、何からの前提を基盤があったうえでの画一性だったと思います。だから、それでなんとかなっていた。しかし、現代は、その基盤が揺らいでいる。だから、人間が人間であることの基本、未来の共同体構成員を育成するために必要なことを明らかにすることが今後の課題なのでしょう。(基盤が一つとは限りません、もちろんその方法も。)私は、全ての基本がそこにあるように思います。

>キリがないのでこの辺で締めましょうか?
面白かったです。
ありがとうございました。

答えがない問いは本当にキリがありませんね。私も面白かったですよ。こちらこそありがとうございました。

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