自民党の礒崎某氏がツイッターで次のように書いたようだ。
「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。」
この言への批判が多くあるようだが、批判の矛先は立憲主義に関する無知(と呼んで良いだろう)に対するものだ。私も大いに疑問を持つが今回憲法談義についての批判はとりあえず脇に置く。それでもこの礒崎某という方の知見には大いに疑問を持つ。
気になるのは、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」という言葉だ。
学歴は東大法学部の卒業である。高校時代の勉強はかなりよく出来たのだろう。おそらく文科一類からの法学部進学だろうから大学受験の点では文科一類が文系で最難関だから、また、もし特に現役での合格なら、彼は「相対的にものすごくできた」はずだ。
高校生で「勉強がよくできる」生徒にも多くのタイプがいるが、共通している点がある。どんな難関であろうと入試は、要は試験だから必ず「試験範囲」というものがあり、大学入試のそれは「高校までの学習事項という試験範囲」でしかないので、生まれ持った記憶力と論理的思考力がその試験範囲をクリアできるほどのものでありさえすれば、授業と受験参考書の何冊かを勉強すれば「自ずから点も取れて試験も合格できてしまう」ものだということだ。(うん。今、かなり能力の高い集団を教えているから、ホント、そーゆーものだということは実感としてわかる。同意してもらいにくいとしたら、このレベルの生徒は少ないというだけの話である。)この方も高校生の時はそんな風によくできたことだろう。
ここで注意していただきたいのは、試験には「習ったこと以外は出ない」ことだ。特に東大の問題は基礎基本を根幹から理解し、十分な応用ができるほどの思考力を習得すれば「それなりにできてしまう」ものである。それで、この際に必要な「思考力」とは「必要なときに必要な既習事項を迅速に思い出してちょっとした思考過程を経て使う」というものだ。思考過程にちょっとしたコツが要ると言えば要る。が、こうしたコツは人から教えてもらっても教えてもらわなくても、東大を目指す程度の記憶力と思考力の持ち主なら何となく体得してしまうことも多い。
前置きが長くなったが、まあ、要は、上記にのべたような能力が人よりも優れていれば試験はできてしまい、そのせいで、(ここから大事→)本人も自分は優秀だと思い、自分の思考の方法に何の疑問も持たなくなることだ。「オレ、周りの人間よりできるもん」てなわけで。だから、「勘違い」が起こる。
この礒崎某氏の大きな勘違いは、「大事なことはすべて学校(大学)で人から教えてもらえる」というものだ。
この方は、世間的な意味で、おそらくもの凄く「アタマがいい」のだろうと思う。ちょうど我々が小学校低学年のときに、先生から教えてもらうことを習得すると「学校で習った」という思いを強く抱く。ちょうどそのように、彼は大学までに学ぶべきことを、もちろんそれが大学の講義内容だけでなく参考文献なども含めたとしても、容易に理解し習得したという経験を持つのだろう。(ここで「ならば、立憲主義を。。」という突っ込みはなしにしてね。論点がずれるから。)
多く人の場合、大学に入るまでに、或いは、大学に入学してから自分の知的能力の限界を知るなどして何らかの葛藤をするだろう。(もちろん、レベルが低くても「これは必要ない。オレには関係がない」と、葛藤が生じない人も多い。)しかし、この方にはそうした経験はないのではないか。でなければ、大の大人が、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」などという、「学校で教えてもらってないから知らないよ。当たり前だ。」という小学生がよく口にする言い回しは恥ずかしくて出てくるはずがない。それを堂々と公言するに憚らない方が台頭してきているというのは、今の社会の知性がまだまだなのか、日本がどんどん劣化してきているということに他なるまい。
「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。」
この言への批判が多くあるようだが、批判の矛先は立憲主義に関する無知(と呼んで良いだろう)に対するものだ。私も大いに疑問を持つが今回憲法談義についての批判はとりあえず脇に置く。それでもこの礒崎某という方の知見には大いに疑問を持つ。
気になるのは、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」という言葉だ。
学歴は東大法学部の卒業である。高校時代の勉強はかなりよく出来たのだろう。おそらく文科一類からの法学部進学だろうから大学受験の点では文科一類が文系で最難関だから、また、もし特に現役での合格なら、彼は「相対的にものすごくできた」はずだ。
高校生で「勉強がよくできる」生徒にも多くのタイプがいるが、共通している点がある。どんな難関であろうと入試は、要は試験だから必ず「試験範囲」というものがあり、大学入試のそれは「高校までの学習事項という試験範囲」でしかないので、生まれ持った記憶力と論理的思考力がその試験範囲をクリアできるほどのものでありさえすれば、授業と受験参考書の何冊かを勉強すれば「自ずから点も取れて試験も合格できてしまう」ものだということだ。(うん。今、かなり能力の高い集団を教えているから、ホント、そーゆーものだということは実感としてわかる。同意してもらいにくいとしたら、このレベルの生徒は少ないというだけの話である。)この方も高校生の時はそんな風によくできたことだろう。
ここで注意していただきたいのは、試験には「習ったこと以外は出ない」ことだ。特に東大の問題は基礎基本を根幹から理解し、十分な応用ができるほどの思考力を習得すれば「それなりにできてしまう」ものである。それで、この際に必要な「思考力」とは「必要なときに必要な既習事項を迅速に思い出してちょっとした思考過程を経て使う」というものだ。思考過程にちょっとしたコツが要ると言えば要る。が、こうしたコツは人から教えてもらっても教えてもらわなくても、東大を目指す程度の記憶力と思考力の持ち主なら何となく体得してしまうことも多い。
前置きが長くなったが、まあ、要は、上記にのべたような能力が人よりも優れていれば試験はできてしまい、そのせいで、(ここから大事→)本人も自分は優秀だと思い、自分の思考の方法に何の疑問も持たなくなることだ。「オレ、周りの人間よりできるもん」てなわけで。だから、「勘違い」が起こる。
この礒崎某氏の大きな勘違いは、「大事なことはすべて学校(大学)で人から教えてもらえる」というものだ。
この方は、世間的な意味で、おそらくもの凄く「アタマがいい」のだろうと思う。ちょうど我々が小学校低学年のときに、先生から教えてもらうことを習得すると「学校で習った」という思いを強く抱く。ちょうどそのように、彼は大学までに学ぶべきことを、もちろんそれが大学の講義内容だけでなく参考文献なども含めたとしても、容易に理解し習得したという経験を持つのだろう。(ここで「ならば、立憲主義を。。」という突っ込みはなしにしてね。論点がずれるから。)
多く人の場合、大学に入るまでに、或いは、大学に入学してから自分の知的能力の限界を知るなどして何らかの葛藤をするだろう。(もちろん、レベルが低くても「これは必要ない。オレには関係がない」と、葛藤が生じない人も多い。)しかし、この方にはそうした経験はないのではないか。でなければ、大の大人が、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」などという、「学校で教えてもらってないから知らないよ。当たり前だ。」という小学生がよく口にする言い回しは恥ずかしくて出てくるはずがない。それを堂々と公言するに憚らない方が台頭してきているというのは、今の社会の知性がまだまだなのか、日本がどんどん劣化してきているということに他なるまい。
学校で教えてもらったこと以外は知る必要はない、知らなくて当然と豪語する子供に手を焼いています。
私と同じような考えもあるのだな、と救われました。
2月25日のこの記事も、結局のところ、同じようなイメージを持ちました。
とても興味深く読ませていただいています。
引き続き、記事を楽しみにしています。
しばらくブログを覗いてなかったのでお返事遅くなり、もうしわけありません。
>私と同じような考えもあるのだな、と救われました。
私、いろいろ言うと、「正論だ」とよく言われます。
今の思考法の主流が、何だか近視眼的になってきて、より普遍的な考え方がないがしろになってきているのだと思います。
いかにして、子供たちの想像力、イマジネーションの力を育成するか、が課題ですね。でも、今は、この想像力の育成を阻む。私から見ると、学校までもが実はそうなっている。
「知」とは世界を広げる営みで、既知のものではないのにね。
近頃長い文章を書く余裕がなく、記事をUPできてないので、申し訳ないです。
てか、自分のやってることに疲れてきちゃいました。
トシなのかな。(笑)
このブログ、ゴミ記事もありますが、それなりにお気に召すものもそれなりに見つかると思います。
これからもよろしくお願いします。
また気軽にご訪問ください。
中高生の時、点数はまやかしだと思いました。
だって、配点が変われば点数は変わってしまいますもの。
紙の本は家にあれば子供も目にします。しかし、親がどんなにたくさんの電子書籍を購入していても、子供の目には届かない。
デジタルのスクリーンは、はた目にはうすっぺらな板にしか見えませんね。