「知識」は「言葉」を外側から、何か集合体として捉えたものだろう。私が生徒によく言っているのは、「『知識』は自分の周りに転がっているものだから、大事なのは、いかにしてそれを外界から切り取るかの方法だ」というものだ。これは「分類」に通じる考え方だ。
随分前だが、養老先生がゾウリムシをいろいろ並べ替えて分類していた。そのとき何と言っていたか明確には覚えてないが、並べ替え方が世界観だ、みたいなことじゃなかったかと思う。大きさで分けたり、色で分けたり、他の細かな形態で分けたりすることで、分類した人がゾウリムシの集団をどのような世界観で捉えたかがわかるというものだった。単純な分類なら、小学生や幼稚園児でも行うが、背後にあるのは、実は非常に根源的な人間の思考である。
学校で教えられている知識も、これと同じで、学ぶ知識を通して、人類がこれまで、その文化圏においてどのように世界を捉えてきたかを伝授している訳である。知識を単なる羅列と捉えるなら、それぞれがバラバラの断片でしかない。しかし、本当のところは、養老先生の分類と同じで、特定の体系を持つ世界観の表明である。では、何が特定の体系なのかを問えば、通常表に出てこない「切り取り方」こそが知識を形作るものということになる。
ならば、一般に知識の習得が大切な勉強とされるのであるなら、根本にある「切り取り方」に着目する方がそれこそ本当の意味で効率良い学習になるだろう。この考え方は、学習事項を量的な知識と捉える人には評判がたいそう悪い。しかし、そうでない人にはかえってなるほどと感心される。この両者には傍目以上の間隙があろうと私は思っている。生徒なら、今後の知性の発展の仕方に大きな差異が生じるはずだと想像するが、皆さんは、いかが思われるだろうか。
随分前だが、養老先生がゾウリムシをいろいろ並べ替えて分類していた。そのとき何と言っていたか明確には覚えてないが、並べ替え方が世界観だ、みたいなことじゃなかったかと思う。大きさで分けたり、色で分けたり、他の細かな形態で分けたりすることで、分類した人がゾウリムシの集団をどのような世界観で捉えたかがわかるというものだった。単純な分類なら、小学生や幼稚園児でも行うが、背後にあるのは、実は非常に根源的な人間の思考である。
学校で教えられている知識も、これと同じで、学ぶ知識を通して、人類がこれまで、その文化圏においてどのように世界を捉えてきたかを伝授している訳である。知識を単なる羅列と捉えるなら、それぞれがバラバラの断片でしかない。しかし、本当のところは、養老先生の分類と同じで、特定の体系を持つ世界観の表明である。では、何が特定の体系なのかを問えば、通常表に出てこない「切り取り方」こそが知識を形作るものということになる。
ならば、一般に知識の習得が大切な勉強とされるのであるなら、根本にある「切り取り方」に着目する方がそれこそ本当の意味で効率良い学習になるだろう。この考え方は、学習事項を量的な知識と捉える人には評判がたいそう悪い。しかし、そうでない人にはかえってなるほどと感心される。この両者には傍目以上の間隙があろうと私は思っている。生徒なら、今後の知性の発展の仕方に大きな差異が生じるはずだと想像するが、皆さんは、いかが思われるだろうか。
これを逆にして、学びたい知識の所有者(民族)の精神的な背景(世界観)を先に学び取れば、同じ知識の習得も容易になるだろう、とのご高察だろうと拝読いたしました。
これには2点ほど、危惧するものがございます。
1.その他民族の背景は、学習者が属する民族言語(たとえば日本語)を通じて知ることになるでしょうが、それは可能か。
2.現在、知識の所有者は欧米(とくに米)と考えられるが、その所有者の世界観を学び取るのは、それほど重要だろうか。
そこに加えて、欧米の世界観に染まるほうがよい、との現行グローバルなお考えは、英語の授業は英語のみで行うとの、先生がご批判されていた方法論に歩み寄る恐れはないだろうか、などです。
ご教示ありがとうございます。
>学びたい知識の所有者(民族)の精神的な背景(世界観)を先に学び取れば、同じ知識の習得も容易になるだろう、
おっしゃるとおり、そのように考えてます♪
>これには2点ほど、危惧するものがございます。
1の観点は、教師が適切なヒントを与えて継続的に学習させれば不可能という訳じゃないと思ってます。私の経験上、これに関する問題は、生徒が素直に理解しようとするかどうかです。
2の観点は、英語が重要というのではなくて、日本語とは違う世界観があるということさえ学べれば良いと思ってます。大事なのは、英語という道具の習得ではなく、自分の世界観(大阪市大?の増田聡先生のtwitterで、人文学の重要性は半径10㎞より遠い世界を知ることだ、と書いてたと思います。)を拡大することそのものでしょう。よって、外国語の学習は、その言語の習得云々は実は、どうだって良い、というのが私の考え方なので、世間受けはきわめて悪いです。
私は信心深い信者ですね。
また〇付け期間になりました。
ふー。