考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「情報化」と「伝言ゲーム」の共通点--養老先生の魅力と楽しみ方

2007年11月04日 | 養老孟司
 「ぼちぼち結論」の「なぜ脳なのか」で、養老先生は、子ども時代に終戦を迎えて「だまされた」と思ったから、騙されたくないと思って解剖学を選び、騙されたくないと考えていたらひとりでに「脳が現れた」と書いている。
 で、こういった肝要な話は、本を読んでもらえれば良いことであるが、この経緯を語る途中でこんな表現が出てくる。(P.161)

「(略)。ただしその情報化にはかならずウソが入る。情報は実際ではないからである。伝言ゲームをやれば、イヤというほどわかるはずである。」

 小難しい「情報化」を、身近なバスのゲーム(遠足の時など昔はよくやったなぁ)の「伝言ゲーム」と同列に扱う。
 私は、正直言って、こんな一節を読むとき、養老先生って、アタマ良いなぁと感心する。

 人によっては、「『伝言ゲーム』はたかがゲームで、仮想の世界じゃないか、『情報化』は、実社会で行われている重要な活動だから、たかが遊びと一緒にするなんて、この人、どうかしている。わけがわからん。」と思うんじゃないかと思う。こういった考えの基底には「ゲームのような遊びと現実の社会は異なる」という前提がある。だから、情報化とゲームは、それぞれの前提が外れているから、「なんでここでゲームがでて来るんだ?」と思うだろうと想像する。或いは、「伝言ゲームは決まったコトバを伝授するだけだ。情報化は、もっと複雑な事象を言語化することだ。だから、違う。」とか。
 いずれにせよ、「情報は、特定の人間の脳を経由して言語化され、人に伝わられる」という共通性に気が付いていないから「相違」の方に目が行っての言ということになる。

 だから、私は、誰でもが知っている「ゲーム」という「遊び」と、「情報化」という現実社会の最優先事項に共通する上記の観点に、「伝言ゲーム」で必ず生じる「ウソが入る」という状況を敷衍して「共通点」として見抜く養老先生は、本当に抽象化能力が凄いと思うのだ。

 う~む。さすが。
 だって、私は、「伝言ゲーム」と「情報化」にこんな共通点を思い付かない。自分の思い付かないことを思い付く人を、私は(自分の定義で)「アタマが良い」と思っている。養老先生は、本当にアタマが良い。

 養老先生を読むと、小難しい中に、こういった卑近な例がさり気なく持ち出されていることがよくある。全く関係のなさそうな事項が突然出てくることもある。もっとも、ほんの一言付け加えているような、今回の伝言ゲームのような例は、「こういった点でこれとこれには共通点がある」とまで親切に書いてない。(書くわけない。)だから、読者は自分で気が付くほかない。これがまたちょっとした「目から鱗」だものだから、私は読んでいて、思わず「わはは。。」とか、くすりと笑い出したくなり、養老先生は本当に抽象化能力の高い人だと感心するのだ。

 養老先生のアタマの中には、自分の身の回りの出来事や体験の全てを基盤にして、このような「まとめ上げ方」で抽象化する発想があるのだろう。だから、文章の中で、小さな具体が適切な場所でそこかしこ顔を出す。養老先生の議論は、小さな具体の集積が上手にまとめ上がって(としか私はもう表現しようがない)、抽象化し、難しい議論に発展しているのだ。

 養老先生の考えに、昨日今日の付け焼き刃は何もない。人のコトバの受け売りもない。全てが自分が咀嚼し、自分の体験から出してきた言葉なのだ。だから、「解剖は自分にとって修行だった」と彼は言えるのだろうし、養老先生の言うことは、「もっともなこと、当たり前なこと」なのだ。


4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なじみのある例の提示 (heisan)
2007-11-04 12:53:42
「伝言ゲーム」は,いわば「日常的になじみのある例」です。
抽象化能力が高い,というよりも,「なじみのある例の引っ張ってきかた」がうまい,と私は思いますが,いかがでしょう?
聖書を読むと,いわゆる「たとえ話」がもの凄くたくさんでてきますが,これも同じだと思います。
話の中に「なじみのある例」を要所要所で入れることのできる人の話は,たいてい,ウケる。
養老先生のお話がウケる理由の一つはココにあるでしょう。
返信する
たとえ話 (ほり(管理人」))
2007-11-04 17:44:28
heisanさん、コメントをありがとうございます。

「たとえ話」を理解するのには、かなり高度な理解力が必要です。それが「抽象化能力」でしょう。

人に説明をするとき、「たとえ」を出すのは、ある意味、危険です。こちらの意図するように「同じこと」を抜き出してくれるかどうかわからないからです。
そう言われたことがありました。なるほどって、思った。

>「なじみのある例の引っ張ってきかた」がうまい,と私は思いますが,いかがでしょう?

ってのは、要は、「抽象化能力が高い」ということです。
返信する
抽象化能力=身近な例を引き合いにだす能力 (heisan)
2007-11-04 18:28:12
> 「たとえ話」を理解するのには、かなり高度な理解力が必要です。それが「抽象化能力」でしょう。

う~ん…。
だとすると,養老先生の話を聴いて理解するためには,養老先生と同じくらいの抽象化能力がなくてはならないことになりますが,これはおかしいですよね…。



> 人に説明をするとき、「たとえ」を出すのは、ある意味、危険です。

同意します。



> ってのは、要は、「抽象化能力が高い」ということです。

要はどっちでも「同じこと」だということですね。
返信する
理解するってそういうことだと (ほり(管理人))
2007-11-04 23:07:00
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>だとすると,養老先生の話を聴いて理解するためには,養老先生と同じくらいの抽象化能力がなくてはならないことになりますが,

私は、そう言うことだと思いますが。
「発見や創造の能力」はともかく、同程度以上の「理解する能力」は必要でしょう。

だから、学校の勉強も、わかる子とわからない子が出てくる。

大事なのは、ある種の教授や訓練(機械的なトレーニングじゃなくっても)によって、これが開発されるということです。

子どもが勉強をするのは、「理解の枠組み」を広げることだと思います。それは、「分かること」を重視してできることではなく、「わからないこと」に果敢に挑戦していくことで初めて可能になるのではないでしょうか。(いつも言ってることだけれど。)

たぶん、脳の中では、シナプスの繋がりをあたらに作ることだと思います。そこに自在に電気信号がぐるぐる回るようになれば、「本当にわかった」ってことになるんじゃないのかな。
脳細胞の発達は、若い方が有利です。だから、子どもの方が理解が早い。(大人はアタマが固い。)記憶も良い。
私は、中学生の時、不思議でした。(記事に書いたっけ?)昨日わからなかったことが、次の日に自然にわかる自分に気が付く驚き。それが、十代の頃、毎日のように続きました。「いったんわかる」と「わからなかった自分」が理解できない、不思議でしようがなかったです。

>要はどっちでも「同じこと」だということですね。

そう思います。ただ、「抽象化」というコトバでくくるとまた違うモノが見えてくるかなと。
返信する

コメントを投稿