考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

考える読書と考える部活

2014年08月10日 | 教育
 養老先生の「考える読書」を読んだ。近著の「自分の壁」も読んだが、こっちはバカの壁形式で編集者が代筆?しているものだから文体がつまらない。「考える読書」は小説推理に連載したものだから、養老先生の文体である。単行本も出ているらしいから、ひょっとしたらそのときに買って読んでいる可能性が高い。だって、何だか一度読んだことがあるような気がするのだもの。これまで何度か同じ本を2冊買ってるからね。
 この連載の時期にバカの壁が売れたから、その前と後で文体が違う。後の方は文章が粗っぽいし、面白みも少ない。養老先生にあってしても、それなりにたっぷり時間がないと思考が深まらないようだ。凡人はよほど時間がないと考えることなんてできないに相違ない。もっとも、「小人閑居して不善を為す」なんて言葉もあるから厄介だ。
 私の読書傾向は、ここ数年はほとんどが内田樹先生で、ごくごく最近は資本主義とグローバリズムなど、広義に言えばおまんまの食い上げに通じる関係の本である。養老先生は久しぶりの出版だから嬉しかった。
 で、なんで「部活」かというと、新しい学校では、珍しくチームプレーに関わる部活動の副顧問になったことと関係する。
 年ばっかり喰っているが、からきしの運動音痴で自分は全くできない。学校の体育の授業でさせられただけの経験である。よって、主顧問がどうしてもやむを得ないときだけの練習監督だから仕事は少ない。先日、珍しく出番があったが、このチーム、いかに弱小チームかよくわかった。(みんな、ごめんね。こんなところで悪口言っちゃって。)
 学校のそれぞれの運動部が強いか弱いかは、試合結果を聞かなくても誰にでもわかるものと思っている。選手が練習をしている場に一歩足を踏みいれただけでわかるのだ。たとえそれが単なる素振り練習であろうと、ウォームアップの基礎練習であろうと、練習場の空気の張り詰め方でわかる。たいていの高校では、卒業アルバムというものを作成するが、そこに部活動写真を入れる。この撮影は意外になかなか面倒で、各々の練習場所を写真屋さんが順番に回って撮る。それに付き添うと、練習場の空気の違いが如実にわかってくるのだ。練習場の空気がどの程度ピーンと張りつめているか、3年生撮影時の1・2年生が統制がどれだけ取れているかが、強い部活と弱いところで、これが同じ学校かと思うほどに違うのである。
 こうした観点で言うと、現在の部活は、絶対に、彼らは弱い、と断言できるし、現実にそうなのである。
 というわけで、ど素人の私が指導してしまった。道具と仲良くなること、そのために、自分の身体の各部と対話して言葉にできない感覚を分節して感じ取ること。基礎的な練習も試合の具体的な場面をアタマにおいて練習すること。俯瞰的な視点を持つ努力をすること。もちろん、イチローや中田英寿の例を挙げた。
 そしたら、もともと相対的に賢い生徒たちで素直でもあるので、私が伝えたかったことはすぐに伝わり、練習の雰囲気が変わった。
 部活動も勉強も、思考法も、何にでも共通点がある。まあただ、部活の時に勉強の話をするのはひょっとしたら嫌かなと思ってあまり言わなかっただけで(ちょっと言ったのだけど。)、英語の文章を読むとき、学習するときもほとんど同じことが言えると思っている。(うんうんと聞いていた生徒もいたが。)
 「考える」基本に何の違いもないし、この力がなかったら、結局実力を付けることはできないだろう。もちろん、最後は、持って生まれた能力に帰結するだろうが、どこまで能力を活用し発揮させることができるかは、やってみなければわからない。それで、高等学校というところは、私は「やってみなければわからないことをやる」場所で、「想定した目的に到達する」場所ではないと思っている。

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