五代 友厚-16 2015-12-19 07:25:44 | 長崎の歴史 初代会頭は五代友厚。 大阪商法会議所を設立した目的は大阪の実業家の 相互扶助によって新時代の潮流に棹差し 大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って 自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に 資するといった教育勅語的な趣旨に基づいた遠大な意図だった。 役員の構成は、五代を初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、 三井元之助(後の三井財閥)、 広瀬宰平(後の初代住友総理人)らの150株を筆頭に皆で立ち上げた。 五代は初代会頭となった。 長崎の歴史
五代 友厚-15 2015-12-17 06:45:40 | 長崎の歴史 設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ 悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、 また互いを助け合うために実業家たちの 一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。 嘆願書の集め方は五代らしい強引な勧誘で、決め文句は「万が一、 後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」で、 結果的に60人の同志を獲得した。 長崎の歴史
五代 友厚-14 2015-12-15 07:25:02 | 長崎の歴史 この事態を打開し大阪経済の復活を願って財界指導者の 有志15名が明治11年7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を 大阪政府に提出。 これが今日の大阪商工会議所の礎となる。 長崎の歴史
五代 友厚-13 2015-12-13 07:55:03 | 長崎の歴史 大阪商法会議所設立 大阪商工会議所明治初期、維新変動の波を受け、大阪経済が低迷する。 銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や 両替商の資産消失が主な原因であった。 長崎の歴史
五代 友厚-11 2015-12-09 06:15:25 | 長崎の歴史 他にも、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、 大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、 神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。 長崎の歴史
五代 友厚-10 2015-12-07 07:15:22 | 長崎の歴史 "> 明治2年(1869年) の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、 また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。 紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・ 製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。 薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、 木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、 黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件 (参照:明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。 長崎の歴史
五代 友厚-9 2015-12-05 06:45:14 | 長崎の歴史 明治元年(1868年) に明治新政府の参与職外国事務掛となる。 外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、 堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。また、 大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、 大阪税関史の幕を開ける。 長崎の歴史
五代 友厚-8 2015-12-03 06:05:19 | 長崎の歴史 慶応2年(1866年)、 御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任。 長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど 実業家の手腕を発揮し始めた。 ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。 慶応4年(1868年) 戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。 長崎の歴史
五代 友厚-7 2015-12-01 06:55:25 | 長崎の歴史 実業家への展望 慶応元年(1865年)、 藩命により寺島宗則・ 森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発、 欧州各地を巡歴。 ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、 これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、 諸要因により失敗に終わる。しかし、 この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。 長崎の歴史