「きのうあなたが書いたブログの<同工委曲>は<同工異曲>の間違いでしょう、たくさん出ているから直したほうがいいです」
というメールをヨミトモF子からもらって呆然とし、すぐさま訂正した。
その前は<露天湯>と書いたつもりが<露店湯>となっていて指摘された。
もっとひどいのは、高野ムツオさんと書いたつもりが高野ツトムになっていて、指摘された。
アルツハイマーに罹ったのではないかと思うほど誤字を書いている。そのたびに冷や汗をかき、指摘してくれたことを謝し訂正ばかりしている。
生きることは恥をさらすことであり、ものを書くは恥の上塗りであると痛感している。
編集者時代は自分の書くものをすぐ見てくれた校閲者がいた。5万トンの船に乗っている安心感があったが今はボートで台風の海を漕いでいるようなものである。
編集者時代に気をつけたのは固有名詞と数字の間違いであった。この二つの誤りは校正者がトレースしにくい種類のものであり、取材した者がきちんとしなければならない。
文字や文脈関係は多少おざなりでも校正者が鉄壁のディフェンスをしてくれた。編集者はそれに乗ってとにかく早く原稿を仕上げることが要求された。
そういう便利な会社を去って間違って恥をかく機会が急増している。
それならブログなど書かなければいいじゃないかということになるが、ブログを知ってしまうと書くことがやめられない。
映画「未知との遭遇」ではないが、自分が発信した言葉をキャッチしてくれる人がこの世のどこかにいてくれるということが不思議でありうれしい。
ぼくの言葉を受けて世の中に毀誉褒貶の渦ができているらしいこともおもしろい。
どちらかというと褒められたいわけだが反応のないよりは謗られたほうがましだ。
こんな小さなブログでもこれを知って近づいてくる個人、団体もあれば逆に去っていく個人、団体もある。
年金生活者の年収は250万円ていどで芸能人は3000万円だとする。
年金生活者は250万円のうち230万円を使うのに対して芸能人は3000万円稼いで3500万円消費してしまったりする。
これがブログを書く書かないの生き方の差のように思う。
ブログを書くのは芸能人みたいに多くの入りがあるが出も多いのである。
会社つとめをしていたころよりもブログを書くようになって世界は広がっているが広がった世界をブログで失ってもいる。
しかしブログを書くことはやめられない。来る人もいて去る人もいてそれは相手まかせのことである。
いまパ・リーグは日本ハムとソフトバンクの一騎打ちが熾烈である。その野球から例をひけば、
腰を引けば凡打、踏み込めば死球に遭うこともある。
ブログは自分を偽ったりきれいごとを書けば誰も読んでくれないだろう。さりとて素材に迫り過ぎると太陽に近づきすぎたイカロスとなって破滅する。
その間で自分の立ち位置を探し続けている。書くのは世界と自分との関係を確認する営為なのである。
今のところ、自分ではブログを書く勇気も根気もないのでわたるさんのブログによって考える毎日です。