
「僕」の北村匠海と「桜良」の浜辺美波
きのう街へ行く用事があり立川映画シティで「君の膵臓を食べたい」を見た。
原作を読んでいないので内容をまったく知らず、事前に「タイトルとストーリーのギャップで話題」だけ頭に入れた。
「青春純愛病気もの」というカテゴリーに入れてしまってもいい内容であり、一人の重い膵臓病で余命短い女子高校生(山内桜良)が一人の男子高校生(僕)と精神的に濃厚な関係になるというストーリーであった。
桜良は僕に「君は私に普通のなんでもない日常を与えてくれる人」をはじめとしてさまざまな評価をし、親愛の情を言葉でねんごろに表現し全幅の信頼を寄せるが、それでも言い尽くせず、「君の膵臓を食べたい」といって僕を見つめる。
一見「タイトルとストーリーのギャップ」を感じさせるが、ほかにどんな表現をするよりこれが的確であると感じさせてくれた。
山内桜良を演じた浜辺美波(はまべみなみ、16歳)と、僕を演じた北村匠海(きたむらたくみ、21歳)の演技が光る。
浜辺の躁鬱病の躁状態のように明るくて闊達な物言い。セリフを矢継ぎ早に繰り出して内向的で自分の殻から出たくない僕をからめ取っていく。
むろんそういう脚本に拠っているのだろうが、病を隠すために明るく見せているのだろうな、と感じさせる演技がいい。
これに渋々ついていく北村匠海の朴訥の感じも好ましい。
「男はつらいよ」に見るセリフの行き交うテンポと間合いこそ日本映画の生きる道とぼくは思うのだが、これとは違うテーストで会話がいきいきしていた。
死んだ桜良の家を訪れた僕が母から彼女が「共病文庫」と題し書き綴っていた日記を見せてもらう。「お母さん、お門違いとは思いますが……泣いてもいいですか」などといって号泣するシーンは極上であった。
終盤、泣かせるシーンを製作者はもう一つ入れた。
桜良の親友であった恭子は僕とずっと敵対していた。それは桜良が病を親友に打ち明けていなかったためでありその誤解を解く手紙を図書館のある場所に隠していた。
その手紙が僕と恭子の間の誤解を一気に解く。(ネタバレまで書いてしまったかな)
ぼくは今の高校生事情を知らない。
桜良が「元カレ」という男子生徒と体の関係があったのか、「ともだち」と「なかよし」はどう違うのか、わからない。
桜良は僕を「なかよし」と呼ぶ。が、この「なかよし」の関係は「カレ」よりなによりも濃厚であり、物語の世界なれど17歳や18歳でかくも濃い人間関係を結んでしまいそのかたわれを亡くしてしまったらあとの人生をどうやって生きたらいいのか、という気になった。
こんな濃い異性との関係は20代、30代、40代にとっておくべきもの、そうでないと人生の円熟期になにがあるの? 燃えカスじゃないの? という疑問が湧いた。
現に物語でもその後遺症で以後10年は経過して教師になった僕は抜け殻状態である。
この教師の僕を小栗旬が演じる。
小栗のうつむきがちの視線と暗さが桜良という絶対の存在を失い、内向的で思索して悩む教師を好演する。

現在の僕を演じる小栗旬
辞職願を抽斗に入れている内向的な僕を図書委員の男子生徒が救う。その男子生徒はかつての自分に似ていて、言い寄ってくる女生徒がいる。彼に「先生、辞めないでください」と言われて、必要とされている自分に気づくのである。
かつて桜良にとって自分が必要とされたように。
あとでヨミトモF子の映画を見たと告げたらむくれた。
「なんで原作より先に映画なの」と冷たい。「1年前、住野よるの『君の膵臓を食べたい』は隙のない出来と言ったでしょう。忘れてしまった映画を見るなんて…」
脚本の吉田智子はいい仕事をしたのではないか。住野よるの原作を読んでそれを検証したくなった。
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