
鷹主宰小川軽舟が月刊『俳句』3月号へ「見つけたり」という題で俳句50句を寄稿している。それを山野月読と合評してきた。今回が最後。山野が○、天地が●。
出港に油煙ひと噴き春鷗
○「油煙」というと、環境汚染の文脈で見ることが多く、あまりよいイメージがないのですが、こうした言葉も俳句に持ち込むところはいいなと思います。
●作品を読むとき小生は環境衛生とかいった倫理観を持ち込まない主義です。「油煙ひと噴き」は汽船をよく見ていて好感を持ちました。これが文字通り油臭いので「春鷗」がぱっと輝きます。このコントラストが俳句を読む醍醐味でしょうね。
比良八荒天を鞴と吹きすさぶ
●「比良八荒」は時候の季語だがもとは「比良八講」という行事。比叡山の衆徒が陰暦2月24日に法華八講を修したころころ寒気がにわかに増して湖が風波で荒れることが多い。比良の八講が済まないうちは本当のあたたかい春にはならないといって「比良八荒」と呼んでいるわけです。
○「天を鞴と吹きすさぶ」とはよく言ったものですね。「比良八荒」の比喩表現としてこれ以上のものはないのでは?「吹き」繋がりで、托鉢の法螺貝のことまで思いました。
●同感です。比良八荒の一物仕立ての句として秀逸。
わが影を浸す汀や春浅し
●作者は浜辺に立っていて自分の影を見ています。影の先は水にかかっていてゆらめいているのでしょう。その描写です。
○「浸す」という他動詞から、作者が「汀」まで歩いていく動きも感じられます。「汀」と「浅し」の響き合いもいいですね。
雨連れて雲去りにけり針供養
○上五中七はよく言われるところで特に面白味を感じません。「針供養」に行こうと雲行きが気になっていたとも読めますが、それがいいことなのか?
●よく言われてないんじゃないかな、この擬人化は。それは面白くないとしても「針供養」の離れ方はどきっとしました。
石鹸玉吹き従へて橋渡る
●中七の描写、見えますね。
○そうですね。石鹸玉を吹いたのが一回だけではなく、橋を渡る間中ずっと吹いている様子が見えます。「石鹸玉」の句として、新鮮でした。
●全部の石鹸玉がついてくるわけじゃなく一部は空へ飛んでいるのだけれど、多くは人にまとわりついて一緒に行く……発見がありますね。
塀の影ぢりぢり縮み地虫出づ
●「ぢりぢり縮み地虫出づ」は「ぢりぢりちぢみぢむしいづ」、濁音5個で畳み掛けていますね。
○影が「縮」むのですから、日が昇りきるまでの時間で、これが「地虫出づ」に呼応するように感じます。濁音の多用はゲジゲジ感がありますよね?
●ゲジゲジ感ねえ。急に暑くなってきた太陽の勢いが影を描くことで出たと思います。
目に見えて雨やはらかし古雛
○「目に見えて」は「明らかに」「はっきりと」みたいな意味で用いる慣用句のそれですよね? 視覚っぽい言い回しから始めて、触角的な「やはらかし」ではありますが、実は聴覚的な静けさを言っているような。
●そうですね。視覚を言いながら触覚、手触り感に転じている例です。これが作者の大いなる武器といってもよくこういった感覚をクロスオーバーした極め付けの作に「蘆原にいま見ゆるものすべて音」(手帖)があります。
江ノ島で江ノ電空(す)きぬ初雲雀
○江ノ電俳句として「そうきたか!やられた」感があります。作者は江ノ島で降りず、鵠沼がどこかに向かうこともわかりますね。
●うまいリフレインです。これも最初にやった者の勝ちという例です。
春の人眠り手首にレジ袋
●「春の人眠り」までは当然の流れですが「手首にレジ袋」で一気に現実味のあるところへ引き戻しました。
○公園のベンチかも知れませんが、電車の中の方がありそうな景です。季語でもないのに「春の○○」と安易に春をつけるな学派のわたる先生も「春の人」はOKですか?
●OKです。歳時記にも用例があるし、鷹でも先代のころから「春の人」「秋の人」は作例が結構あります。
亀鳴くや伏線多きミステリー
●この季語に対して「伏線多きミステリー」は「梅に鶯」みたいにぴったり。どんぴしゃの付け合せというのは先に言った者の勝ち。そういう句ですね。
○言われて気づくドンピシャリ感ですね。「亀鳴く」ことそのもののミステリーもあります。
空港に日本のにほひ春の雨
●どんな匂いかなあ。まあ、土地それぞれに言葉にし難い匂いみたいなものは感じますね。
○海外から日本に着いたら「春の雨」だったのか? 海外の空港で「春の雨」に遭い、日本を感じたのか?
●成田に来たら雨が降っていたと読みました。それしかないんじゃないかな。
掃除する空港広し鳥帰る
○一読、笑っちゃいました。確かに空港は広く、掃除は大変そうですが、作者がそうするわけでもないのに「掃除する空港」という導入はいいですねえ。
●そう、掃除すれば空港は広いです。当たり前なんだけど、これはずばっと言って味が出ます。そのへんの機微を作者はわかっています。
腹持ちのはかなき粥や春の暮
●上五中七はどうということもないのですが「春の暮」が来ると俄然色めき立ってくる、このへんをこなすのが巧い作者です。
○「腹持ち」は、「いい」か「悪い」かに相場が決まっているように思いますが、それを「はかなき」とずらして味がありますね。
麗らかや眠るも死ぬも眼鏡取る
●中七の並列の妙味、眠りと死のときに似てしかしおおいに異なるところを味わいに結びつけてみごとです。
○「眼鏡取る」のが自分かどうかの違いですね。こうした気づきに「麗か」を配合する個性が光ります。
●そう、季語が決まっています。
畳の上で死ぬため春の家探す
○いわゆる終の住処。慣用表現を含め、馴染みのある言い回し、表現に少し手を加えるだけで、まだまだ未開拓の言葉世界があることを痛感させられた50句でした。
●この場合の「春の家」という季語にぼくは違和感があるのですが、「畳の上で死ぬため」という切り込みはいいので、違和感ある季語を許すかという気分です。屈折したロマンを感じます。
○主宰には「春の家線路に近く駅遠し」の句もあり、「春の家」に関しては「春の人」のような扱いをされているんじゃないでしょうか。
●50句の中に妻を題材にした句が1句もなかったということがおやっと思った点です。先ごろ、鷹から主宰が俳人協会賞を受賞した句集『朝晩』について何か書けという要請があって書き上げたばかりです。ここで主宰をおおむね褒めたのですが、妻俳句が多いことに苦言を呈しました。妻を書くとどうしても全体が軟弱にとられてしまうのでね。
しかしこの50句に妻への言及が皆無であった……ここに作者の何らかの決意ないし転換があるのではと思いました。ますます楽しみです。
写真:福岡県宗像市のとある沼
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