
鷹6月号は今野福子が月光集巻頭であった。以下の5句である。
陸奥一之宮なるほどの花吹雪
一之宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。陸奥では鹽竈(しおがま)神社が千年以上の歴史を誇るそれである。中世は、奥州藤原氏、仙台藩藩主となる伊達家からも厚く崇敬されてきた。
この句は鹽竈神社の花吹雪を称えているのだが、感心したのが「なるほどの」である。「なるほど」は副詞と感動詞があるが副詞に「の」を付けて形容詞的に使えないから分析すれば<感動詞+の>であろう。そうだそうだと相槌を打つ感じで花吹雪を称えている。「なるほどの」は今野の専売特許ではないがこれがはまったのは冒頭の「陸奥一之宮」の厳かさゆえである。
啄むにもはらの鳩や朝桜
今月発表した5句のうちで動詞がしかとあるのはこの句の「啄む」と次の句の「帰りけり」だけではないか。この「啄む」も「啄むにもはら」と展開して動詞が目立つのを抑えている。動詞は一句を鮮やかに立たせる品詞であるが今野は動詞の力を殺いで句を鎮めようとしているように感じる。
鳩は俳句にそうとう詠まれてもはや新鮮な素材ではない。この句は鳩が一生懸命食べているというだけのことであるが、「啄むにもはらの鳩」という表現でいい気持ちになるのである。
あとはかなき日和を鴨の帰りけり
鷹主宰が推薦30句(特選)に推した句である。この句の要点は「あとはかなき日和を」である。「あとはかなき」はほぼ「はかなき」と同じ意味。実作者の立場でこの句をみると、うまく穴埋めしたなあというのが「あとはかなき」である。「はかなき」と同じ意味で2音よけいにある「あとはかなき」があるということに気づいた勝利である。「あとはかなき」に続く「日和」も実体のない言葉でありこの句の前半は雰囲気だけである。が、情緒に流れているか、ムードに酔っているかといえば、否である。
情緒に流れず情趣を醸す玄妙な味わいがこの句の魅力であり、鷹主宰は高度な言葉遣いに惚れ込んだのであろう。
たんぽぽの絮吹く息を有りつ丈
この句も動詞「吹く」を目立たせない「有りつ丈」が効いている。今野の意識のなかに物のわきで、また背後に自分を隠して静かにしていようという気配がある。競馬においてラストで伸びて勝つ馬の疾走は身体全体が沈む感じになる。これに対して息が上がった馬は上下動が激しくなる。今野の今の句作りはラストに身体が沈む感じの優駿という感じである。
あれはたれ時の電柱菜種梅雨
「あれはたれ時の電柱」は「あとはかなき日和」と似通っている。主張すること、物を際立たせることから徹底して離れようとする。字数の多い和語でゆったりした情趣を演出する。物を氷山の稜のようには見せず奥行を見せようとするのは水墨画に通じる。
言葉を詰めず睡蓮の葉のように置いている。大きな葉を二三枚置くことで玄妙な世界に読み手を引き込む。句のよさを説明できない境地に至っているのではないか。
今野福子の俳句は睡蓮の葉のありようを思わせる

陸奥一之宮なるほどの花吹雪
この句の鑑賞もとても勉強になり、確かにそういう読みだろうなと思う一方で、ふと別のことも頭を過ぎりました。
わたるさんの読みは「陸奥一之宮」で切る読みですが、そうではなく、「陸奥一之宮なる」という名詞句の可能性はないでしょうか。
読みとしては、わたるさんの読みの方が俄然面白いのですが、そんなことをふと思った次第です。
・あれはたれ時の電柱菜種梅雨
(時の電柱)を(電柱の陰)とすれば平凡陳腐な句になるところです。
・たんぽぽの絮吹く息を有りつ丈
(有りつ丈)奇抜な表記です。
・あとはかなき日和を鴨の帰りけり
(あとはかなき)嗚呼はかなき、では平凡陳腐かなあ。
・啄むにもはらの鳩や朝桜
(もはら~専ら)これは景が鮮やかに見えます。佳吟です。
・陸奥一之宮なるほどの花吹雪
(なるほどの)といわれると、たちまち花吹雪が舞いますね、悠・特選です。偶然に季語が填まった秀句と見えるところが非凡かと。
作者は統失か天才です❗