天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子は7月中旬をどう詠んだか

2023-07-18 05:50:21 | 俳句



藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の7月中旬の作品を楽しみたい。

7月11日
遠雷をかたみに言ひて夜の夫婦
中七「かたみに言ひて」あたりに夫婦の時間がしかとあり情感がある。なにげない会話こそ夫婦である。
下町のをとこをみなの夏芝居
このレベルの俳人は句の核である中七が巧い。「をとこをみな」はどうということない措辞に見えて下町の人々を的確に描いている。訴えるのではなく楚々と文言が脈動している。

7月12日
蛇の衣微音を発しゐるごとし
蛇の衣は乾くと鋏では切れそうもないくらい固い。そこに音を感じるのは理解できる。季語の質感に忠実である。
観る椅子に杉村春子夏芝居
トップレベルの役者が誰がやる何を見たのか興味津々。冷やかしではなく真面目に見ていそうで気になる。

7月13日
十三日金曜日午後急に暑し
こういう句の作り方があるのかと感心した。吟行などした際、かような精神の柔軟さがあると楽しくなるだろう。
子規ほどの根気はあらず白団扇
湘子も子規並の根気があると思う。1日10句を3年も続けたのであるから。ここに先生の美意識を垣間見る。

7月14日
飛んでゐるかぎり揚羽の時間あり
下五「時間あり」は小生にとって新鮮。観念的な語彙を一句に容れる感性が小生になく目をみはった。先生はほかにも「ぺしやんこの紙風船の時間かな」がある。中央例会に「しみじみと新茶したむといふことを」を出したとき湘子は下五がホトトギス流で感心しないという。そこで「しみじみと新茶をしたむ時間かな」として採ってもらったことが懐かしい。
辞書ばたんと閉ぢてががんぼ吹つ飛んで
広辞苑であろうか。投げやり的な書き方で状況を活写している。
夜の朴いくばくの涼放ちしや
木はそばにあるだけで涼感がある。朴は作者がもっとも好んだ木である。

7月15日
白き家白き雨降り合歓の花
家が白いと雨が白いというのは強引だが情感に丸め込まれる。合歓の花が効いているゆえんである。
螢いまねむれる草を吸ふときぞ
螢は草に取り付くがあれは草を吸うのか。とにかくおもしろい発想である。

7月16日
甚平を着て好きなことするがよし
力を抜いて書いている。誰かに諭すような口調だが自分自身に言っているのだろう。
朝涼や水にこぼれし蛾が泳ぐ
蛾が翅をばたばたさせている。それがこのように一句になる。見逃していることの多さに気づかせてくれる。朝涼を置いたことで詩が立っている。

7月17日 群青忌とは秋櫻忌なり
群青忌雷鳴つとに到りけり
「つとに」には、朝早くと以前からの意があるがここでは朝早くであろう。朝の雷鳴は珍しくゆえに秋櫻子の命日を意識している。
弟子われの歌舞伎知らずや群青忌
そういえば秋櫻子の句の優雅さは歌舞伎に通じるものがある。晩年の湘子は秋櫻子の師である虚子をめざした感じがする。

7月18日
同じこと百遍こたへ簗の番
三遍くらいだとわかるが百遍とはどういうことか。簗番のように暇な人がつっけんどんなのはわかるが相当揶揄している。作者との間に何があったのか。
白玉の白妙五つ六つと食べ
「白玉の白妙」というリフレインを効かせ「五つ六つと食べ」とリズム感もいい。声に出して読みたい湘子流の美しい句。

7月19日
指立つるより白桃の香に溺れ
「指立つるより」に侵してはいけないものを侵す風情があっていい。「白桃の香に溺れ」がそれを支える。
ひぐらしや杜しづみゆく雨の中
杜だから神社仏閣の樹木を思う。蜩を置いて静けさを書き止めた。

7月20日
走馬燈吊る腕太く見えにけり
吊っているのは男か女か。「見えにけり」だから女で腕のたくましさに敬意を払ったのであろう。
ズボンより小銭こぼれし夕立ぐせ
若いとき「逢ひにゆく八十八夜の雨の坂」と書いた作者とは思えぬ「ズボンより小銭こぼれし」である。この具体性と卑近さが俳句であるが「夕立ぐせ」がさっぱりしない。「夕立かな」ではいけなかったのか。そこに「雨の坂」に通じる鬱屈を見る。
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