
ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』(ウィーン美術史美術館蔵)
おとといの当ブログに「鷹8月号小川軽舟を読む」を掲載した。そこに以下のように書いた。
バベルの塔簾かけたる窓もなし 小川軽舟
これは虚を楽しみましたね、軽舟さん。
「バベルの塔」はノアの洪水が去った後、人々が建てようとした高い塔。神がその高慢を怒って人々の言葉を混乱させたという旧訳聖書の中の話。想像上の搭の窓に極東の島国の簾をかけてみたら……という飛躍の句である。
俳句は「見える」かどうかを第一の評価の基準にすることが多い。このとき誤解したくないのは「見える」は光が当たって反射する世界のみの「見える」だけではないということ。心象に見えるという要素もきわめて大事なのである。それが心の解放に通じるのである。
するとこの読みに、蓼さんが「バベルの塔に窓はない」という異論を突きつけたのであった。
想像上の搭は空洞であり
窓のようにみえるのは単なる穴です
わたるさんがいう「想像上の搭の窓」はなく、
主宰がいう「窓もなし」の言葉通りということになります
主宰は「窓もなし」で窓そのものがないと言いたかったのか、窓はあるがそこに簾をかけていなかったのかと言いたかったのか……その読みがぼくと蓼さんとで分かれたのであった。
ギュスターヴ・ドレ『言語の混乱』

ギュスターヴ・ドレ『言語の混乱』は蓼さんの説を支持するような気がする。しかし煙の出ているところは窓ではないのか。「いやそれは穴」と蓼さんは譲らない。
次に紹介するヨース・デ・モンペル『バベルの塔』(国立古美術館蔵)を見ると、ピーテル・ブリューゲル同様、ぼくには窓に見えてならぬが蓼さんは「穴」といって譲らない。
ヨース・デ・モンペル『バベルの塔』(国立古美術館蔵)


こういうときは辞書を調べよう。
広辞苑は「窓」を「採光または通風の目的で、壁または屋根にあけた開口部」と解説するではないか。つまり用があってあけた穴が窓なのだ。ああ、馬鹿らしい。
まず辞書を引こうね、蓼さん。
それにしても俳人とはなんと酔狂者であることか。
「穴」であろうと「窓」であろうと日本の経済にも極東の安全保障にも何の影響も与えない案件に言葉と時間を蕩尽する。その結果、「穴」と「窓」は一緒と広辞苑に言われる。
無駄な議論が楽しかったけど。
古代ではこの建具(窓枠やガラスや扉)がないままの
開口部のみだったようですね
作者は先日まで上野でもやっていた「ブリューゲル展」を観に行かれたのんだろうな、と思いました。